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「第十一夜」漱石忌Advent Calendar 2015

第十一夜

 こんな夢を見た。
 屋敷を訪問した。自分は薄手のコートを着ていた。御免下さいと云うと、玄関の引き戸が開いた。浴衣を着た女が、いらっしゃいと云った。女は風呂に入っていたところに突然の客が来たとでもいった様子で、しきりに汗をかいていた。目を細めて微笑んでいるようだった。
 自分は和室に通された。西側の障子が外されていて、廊下を挟んですぐに庭だった。日は沈みかかり、桔梗の花を赤く染めていた。夕日の色が濃すぎるあまり、花の元の色がわからなくなっていた。
 女は濡れた髪をまとめていたが、滴ってくる汗を浴衣の袖では拭いきれなくなったらしく、手拭いをとりに浴室へ行った。自分はその間、部屋の中を眺めていた。
 部屋の壁と天井の境は、幾つもの額縁で隙間なく埋められていた。北側の額縁の、左端には男の写真があった。見覚えがあったが、誰だったかは思い出せない。写真の中の男はせいぜい二十代に見えたが、写真は古いもので、この男が生きていれば今頃は七、八十にはなっているだろうという確かな手触りが感ぜられた。
 その男の写真の額縁の、ひとつ右隣に目を移した。正方形の額縁の中央に、楕円形の、貝殻のような形のものがあった。その周りは綿が敷き詰められているようだった。楕円形のものが何であるのか、即座には分かりかねた。自分は座布団に座ったまま、目を細めてそれを注視した。
 耳だ、と思った。おそらくは人間の右耳が削ぎ落とされて、切り口を下にして、正方形の額縁に収めてある。
 女が手拭いを持って部屋に戻ってきた。しきりに汗を拭っている。手拭いからはすでに拭い取った女の汗が滴っている。自分は女に、額縁の耳のことを尋ねた。
「どうしてあのようなものが、あそこに」
「どうしてって、当たり前ではないですか、可笑しな方ですね」と女は云って、うふふと笑った。
 女の汗が、手拭い一枚では抑えきれないようだったので、自分は手斤を差し出した。女はひったくるように手斤をもぎ取り、膝の上に載せた。手拭いを雑巾のように絞ると、水道の蛇口をひねったように水が流れた。女と自分の間の畳の上に、水たまりができた。絞った手拭いを膝の上に載せ、手斤に持ち替え、再び汗を拭い始めた。
 女の浴衣がほとんどはだけたようになっていたため、自分は意識的に目をそむけなければならなかった。仕方なしに、例の耳の額縁の、一つ右隣に目をやった。予期していたことではあるが、そこには鼻があった。人間の鼻が削ぎ落とされて、正方形の額縁の中央に収めてある。これは耳と違って、真正面を向いていた。
「どうして」とまで云ったが、答えも予期された通りであろうと思われたので、それ以上は尋ねるのをやめた。女は相変わらず目を細めて微笑んでいるようだった。
「実はここへ来る途中、土産を買ったのですが、うっかり、それを買った店に、その土産を置いてきてしまったのです。代金だけ支払って、何も持たずに、ここへ来ました。お恥ずかしい話です」と自分は云った。
 女は本当に可笑しそうに、首を傾げて「蒸しますものね、仕方ありません」と云った。
「蒸しますか」と自分は聞いた。肌寒い暮の秋で、蒸すとも思われなかったが、女が大量に汗をかくので蒸しているのかもしれないと思った。しかし、蒸すから仕方がない、という因果が、自分には理解しかねた。どうして蒸すと、土産物を忘れることになるのだろう、と思った。
「だって、肉まんでしょう」と女が云った。
「はい、買ったのは横浜の肉まんでした」と自分は答えた。この女はなんでも知っているのだ、と思った。
「肉まんは、寒い中、ふうふうして食べるのが美味しいものですのに。どうしてこう、蒸す日に、肉まんなんて」と女は云ってまた笑った。
 自分は合点がいった。蒸すから、肉まんを食べる想像が不可能になり、買ったそばから記憶から消えてしまったのだ、という因果を、女は云ったのだ。
「あの、左端の男性は」と自分は聞いた。
「あれは、あなたじゃございませんか。あなたが私を犯したから、刑罰にあって、耳と鼻を削がれたのではないですか。私はあまりに可哀想になって、大事にあなたの耳と鼻を守っているのですよ」と女は云った。
 これもまた、合点の行く話であった。

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