【朗読会のお知らせ】長田弘の詩と朗読

ふくしま現代朗読会第3回。出演予定です。生きていればですが――そんなに先のことは自分にはわかりませんが……出演するとすれば、長田弘『言葉殺人事件』(1977年)から数篇読みます。

今年は長田弘の詩を読みます。

2016年10月2日(日)13:30~@ホテルハマツ1階ロビー。れいによって無料です。

ホテルハマツに駐車場がありますが、毎回、混んで駐車できないケースが多発していますので、早めに来られるか、近場に駐車場を見つけるか、バスなどでお越しください。

毎回、朗読会の前には予習のための記事をブログに書いているのだけど(第1回は宮沢賢治、第2回は芥川龍之介)、長田弘については、書いてはうっちゃり書いてはうっちゃりの繰り返しで、なかなか記事としてまとまらないでいる。そのへんの「つらみ」をちゃんと書いておきたいとは思っているのだけど、いつになるのか、自分でもよくわからない(なので『長田弘全詩集』というのが出ているので、それを読んでください、と言いたくもなるのだけど、もし「なにこれツマンナイ」ということになったら高い出費になってしまうし、困ったなあ、というところである)。

そもそも長田弘はぼくの認識ではマイナーなので――少なくとも谷川俊太郎や吉増剛造のような大詩人ではない、と思う――皆さんに朗読を通して知ってもらう、そして朗読を聴いてもらうために「さわり」だけ知ってもらう、という方針でこの文章も書いたほうがよいのではないか、といま、思い始めた。

長田の詩には、難解な言葉は出てこないし(晩年かなりペダンチックになるとはいえ)、どういうテイストの詩を書きたくて書いているのか、誰にでも分かるように書かれている。

というようなことを書いたら、またはじめにループして戻ってしまった。もんだいは、長田弘には「さわり」というものがないのだ。谷川だってそうでしょう、と思われるかもしれないけど、そこはマイナー詩人の哀しいところで、何度もマイナー詩人などと書いていると怒られるんじゃないかとビビってきたんだけど、『深呼吸の必要』(1984年)は売れたし(斉藤由貴が当時愛読書としてあげていた)、晩年にはNHKに番組を持っていたし、同時代の詩人ともそれなりに交流をもっていた(そういえば吉増剛造と同じ1939年に生まれたのだった。独ソ不可侵条約の年。ついでにいうと11月10日が誕生日で、これはランボーの命日だ)。

でもたぶん、家に詩集が5~6冊ぐらいしかない(あるいはまったくない)人なら十中八九、知らないでしょう。この知られてなさ、というのをどう表現していいのかわからないのだけど。

とここまで書いて、谷川俊太郎と都築響一の対談を思い出した:

谷川 僕が一番こたえるのは「私の好きな詩人は谷川さんと相田みつをさんです」と言われる時ね。
都築 やっぱり! よくあるんでしょうね(笑)。
谷川 あるんですよ。その時はちょっと考え込む。これは何なんだと。
(都築響一『夜露死苦現代詩』ちくま文庫)

これが「ああ、ありそう(笑)」と笑えるのは、谷川俊太郎だからである。おそらく(っていうか絶対)吉増剛造だったらそのようなことはありえない。相田みつをファンの目には吉増の詩は紙にインクをぶちまけたノイズにしか見えないだろうし、吉増ファンの目には相田みつをの詩(?)はとても興味深い造形の原稿用紙に見えることだろう。しかし長田弘のばあいにもこれはないだろう、ということに思いをはせると、もっと事態は深刻である。たぶん、相田みつをファンが、長田の晩年の詩集『奇跡――ミラクル――』(2013年)を読んだら、半分ぐらいのひとは「アア、イイナア」と思うのではないか。これはもちろん悪い意味で言っているのだけど。逆に長田ファンが相田みつをを読んだらどうか。たぶん、洟も引っ掛けないのではないか。

ぼくがいま、何を言いたかったのかというと(自分でも忘れてしまっていたが)、「ある時期以降の長田弘しか読んでいない長田ファン(Amazonレビューでみかけるのだけど)は、せいぜい相田みつをを一見高級そうな包装紙で包んだだけのものに『卓越(distinction)』を感じているにすぎない――そしてそのことによって《ワタシタチにはヤサシクシてくれるオサダサン》という像を守っている」ということのように思う。精神分析でいう防衛反応ではないか。そういうことかな。違うかな。そうだ、「知られてなさ」について言いたいのだった。相田みつをはメジャーだ。ただし、相田みつをが書いてきた「民芸プロパガンダ」(ぼくはこの言葉をいま考えたが、けっして悪い意味を担わせてはいない)は、谷川俊太郎(や吉増剛造や入沢康夫や……)が牽引してきた「(現代)詩」とはまったく異なる目的でつくられたものだ。そういうコモンセンスがおおむね共有されているから、「谷川さんと相田みつをさんです」という言明はパンチをもつし、おかしみを生じさせる。

余談になるかもしれないけど、ダダ100周年なのだから、相田みつをを現代詩として扱う前衛芸術運動があってもいいんじゃないかなあ。ぼくが思いつくぐらいだからそういうのはとっくにあるのかもしれないけど。

どんどん長田弘から遠ざかってしまっているけど、無理やりもとに戻すと、こうやってめんどうくさいことを考えなければならないのは、長田弘の詩人としての変容(「転向」とさえいってもいい)は、たんじゅんに「初期は才気煥発だったけど、後年、万人受けを狙って堕落してしまった」というようなリニアな変化ではないからだ。表面上は、そう見える。使用する語彙・モチーフにはそれほど変化はないのだけど、思考のフレームワークが変わってしまった。理解されないことを承知で飛躍していうと、初期にはベンヤミンへの正しい理解(とおそらく誤解)があったが、後期にはハイデガリアンになってしまった。初期には晶文社版の『ベンヤミン著作集』の編集にもかかわっている(ぼくの世代だと、ベンヤミンはだいたい、ちくま文庫で新訳が読める、という状況になっていたけれど、ベンヤミンを引用している論文の文献表にはまだ晶文社版への参照が見られた)。『奇跡』には「ベルリンのベンヤミン広場にて」というタイトルの詩も所収されているが、噴飯物である。

ごめんなさい、飛躍しました。ただ、もう一点、飛躍ついでに留保を加えると、長田弘の詩には、デビューから死まで、一貫して、ポール・ニザンの影がつきまとっている、という事実を指摘しておきたい。

ぼくの考えでは、第三詩集『言葉殺人事件』で長田は「詩人として」のピークを迎える。ほんらいならそこで、谷川や吉増らと肩をならべるはずだった。しかしその後、長田に必要だったのは、あの第四詩集『深呼吸の必要』だった。詩人としてのポテンシャルが落ちたわけではないが、態度に変化が見られる。それまでの長田が、他の現代の詩人たちと同様、未来に向けて、新しい読者に向かって詩を書いてきたとすれば、それ以後の彼は友人たちに向かって書き始めた。

ようするに内輪受けでしょ、といいたいのではない。固定客がついたから、客の望みに応じて書くようになったんでしょ、というのも……これは半分ぐらい違う。ああ。この「半分」がぼくの「つらみ」なのだった。『奇跡』、あるいは長田の妻の死の(2009年6月4日)後の詩集『詩ふたつ』(2010年)、あるいは東日本大震災の後の詩集『詩の木の下で』(2011年)をみればよい。あるいはNHK「視点・論点」をまとめた岩波新書『なつかしい時間』(2013年)をざっと眺めればよい。これらの本は、長田にとっての「友人たち」がどういうひとびとなのかを、明瞭に示している、ように見える。いまあげた本「だけ」を読んで「アア、イイナア」と「だけ」思うひとは、長田の初期三部作(『われら新鮮な旅人』1965年、『メランコリックな怪物』1973年、『言葉殺人事件』1977年)を一行も理解できないだろう。あるいは相田みつををまったく同一の文脈で「アア、イイナア」と思ってしまうことだろう。

いまいった意味では、長田の「友人たち」にぼくは含まれていない。ただし、とここで留保が入る。

長田にとってポール・ニザンへの友情の念は、晩年には無視できる程度のものだったのだろうか。もしそうだったらどんなに楽だったことか! 「長田、最初の3冊だけよかったよね、あとはカス」で済ますことができたのだから!

長田は1967年のポール・ニザンにかんする評論文「祖国に叛逆する精神」のなかで、こう書いている。

わたしたちがわたしたちじしんを途方もなく裏切っていないだろうかと問いかえすとき、ニザンがわたしたちの「友人」になる。何ものをも許さないほかにわたしたちにいったい何ができるだろうか、そうすることによって何ひとつ解決されるものが現実にありえないとしても? これが、わたしたちとニザンの「友情」の黙契なのである。わたしたちはわたしたちの現実の無力さを承服しがたいがゆえに、解決された誤解や克服された卑劣さのうちに、わたしたちの「友情」を、そのために書き、それにむかって書く「友人」の存在を実感することができるのだ。わたしたちの友人としてのニザンは、わたしたちの孤独を世界に対するいわば公然たるひとつの挑発にまで展開させえたニザンである。(「祖国に叛逆する精神」『現代詩論9 谷川俊太郎・長田弘』晶文社、206頁)

長田はこの文章の最後で、《わたしたちは、きっといま、〔…〕ポール・ニザンなのだ》(215頁)とまで言っている。また、ドリュ・ラ・ロッシェルとポール・ニザンを論じた1968年の「陰謀・裏切り・死」では、ドリュとニザンを《戦争から帰ってきた者たちの戦後への不馴と、戦争に遅れてきた者たちのこの戦後への不信》という補完的二項で捉えている。ここでいう「戦争」とは、第一次世界大戦のことだ。同じフランス人の作家だが、一方は戦地から帰ってきたもの、一方は戦争に遅れて生まれてきたものとして比較並列されている。このとき、同じく「戦争に遅れて」生まれてきた長田が(終戦を5歳のとき福島県三春町で迎えている)、ニザンに強く同一化していなかったと、どうして言えるだろうか。

長田にとって「戦争」とは、1937年に廬溝橋事件にはじまる日本の戦争ではなく、1939年にドイツのポーランド侵攻によってはじまる「第二次世界大戦」を第一義とし、さらには長田が「戦争」ということばを使うとき、それはフィクションなのか歴史上の事件なのか、戦争というラベルを貼った別の何ごとかなのか、判別できないほどの抽象性を帯び、「詩語」にまで彫琢されることになる。

長田をかたることにまつわる「つらみ」は、晩年の作品に至るまで、ポール・ニザンに対する友情の影が、通奏低音として流れていることによる。だから、切って棄てられないのだ。

というような長い文章を書いたことを後悔しつつ、かんじんの長田の詩のフレーズを引用していないことに気づいた。

2001年の詩集『幸いなるかな本を読む人』から、「人生に一本の薔薇を」を引用する。これは今回のわれわれの朗読会では読まれない。なにかの参考になれば。

人生に一本の薔薇を

小さな町に生まれた。
古い大きな家にそだった。
偏屈だった。
友人はいない。
町の誰とも話さなかった。
生涯どこへもゆかなかった。
おそろしく単純な人生だった。
独身で、髪は短くつめて、
教会の窓ガラスに描かれている天使に似て、
どこか悲劇的で、澄みきっていて、
「かわいそうな人」と
みんなは噂したけれども、
彼女は気にもしなかったのではないか。
どんなときも昂然としていて、
近づきがたくつむじまがりだったが、
一度だけ町の薬屋にでかけていき、
「砒素をください」
薬屋の目をまっすぐ見すえて言い、
それきり、何も言わずに、
頭蓋骨と大腿骨を組みあわせた印のある
薬を一箱、手にして帰っていった。
「自殺するつもりなんだ」と
みんなは噂したけれども、
彼女は自殺なんかしなかった。
そのまま世代から世代へ世を過ごして、
何事もないかのごとく歳をかさねて、
鉄灰色の髪の老いた少女のように、
或る日、静かに死んだ。
一本の薔薇を。――
人生のぞむべきはそれだけである。

※この文章の続き→「シン・ゴジラ 光 詩」

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