ペットを飼うとかいう精神

極寒の中からこんばんは、ヒエジゴンです。

さてタイトルの件ですが
先日公園を流浪するという、地域治安に対して悪辣非道な行為に手を染めた次第なのですが。
その際、犬を散歩させている人を数度見かけました。

身の丈を超えるような大型犬から、つま先を当てただけで砕けそうな小型犬まで色々と見たのですが。

ペットを飼う人ってどんな精神をしているのでしょうか?

もし、この文を読んでいる方が居たなら教えてください。

「動物を慈しむ心を持っているからペットを飼っているのか?」
「ペットを飼ったから動物を慈しむ心が育まれるのか?」
どちらなのでしょうか?

しかしもって
いったいどんな精神構造しているのでしょうか?

自分の生活環境に絶対に制御不可能な怪物が存在し…
更にはその怪物を絶対優先しつづけなければならない状況…

いったいどんな精神性をしているのでしょうか?

犬猫鳥、ネズミにトカゲ、蛇、亀、魚…

生物学的に哺乳類から離れていくにつれて
ペットというよりは鑑賞物やコレクションになっていく…
と言うのはまた別の機会に譲るとして。

どの生き物でも制動は不可能であり、
傷つけられることは赦し、傷つけることは許されない…
ともすれば人間より上等な衣食住を提供することが当然とされる。
ともすれば人ひとりより生きるにコストがかかる。

いったいどんな…

やはりペットを飼うような人間は上級国民でしかなく、
貧乏貧相アピールしようと上等な人生を歩んでいる人々なのでしょうね。

でなければ、ペットなんて買えるわけが有りません。
目に見えるコストだけではありません、
精神的なコストは尋常ではないでしょう。
仕事の妨害や日常生活の阻害を受けたことを嬉々として話せる人々
どんな寛大な精神なのでしょうか?
私にはわかりません、それは最初か持ち合わせているべきものなのですか?
それとも育てて育つものなのですか?
不思議です。

もし私がペットなんて買ったら半年も持たずに手放すか、
あるいは…
最悪の結末を迎えるでしょうね。

もっともペットなんて買える立場におりませんので大丈夫です。
野良や捨てを見たとても放置以外不可なので安心してください。

ただ一つだけ思うことが有ります。

尊崇する故・星新一氏のエッセイ集に記されていた一文
手元に実体が無く、正確なタイトルや内容を記載することが出来ないのが
甚だ残念なのですが。
今度実家に帰った時に父ヒエジゴンの書庫から漁ってきたら、
その時もう一度紹介させてもらいますね。

星新一氏のご尊父様、
星一氏の逸話の中に以下の様なものがあった気がするのです。

「一家、一家族に、犬猫を飼う支援を国で行う、食や医療を国で保証する。それで社会問題の大半が解決する。」

といった内容です。
荒唐無稽な個人の発言ではなく政治家としての提案だったはずです。
星一氏は実業家であり政治家の方でしたので。

実に空想的でバカげた提案の様ですが
精神医療としてのアニマルセラピーなんかは当然のように行われており
それを集団の最小単位"家族"で行うことで
人々の精神の安定と発達を願ったのかもしれません。

今ほど動物の権利()が声高に絶叫されていない時代の話、
犬猫が良くも悪くも適当に飼われていた時代の話ですので、
現代社会には適応しないでしょう。

思うのです。

ペットを飼っている人の全員が、
精神的に安定しているとは申しません。

しかし、望むなら支援しても良いのではないでしょうか?
孤独に暮らす人の支えとして
核家族の果て小皇帝を量産させないためにも
失った社会とのつながり結びなおせるかもしれません

少なくとも
犬猫を稀少で高価な嗜好品としての商品として取り扱い
「市場」としているより良いんじゃないでしょうか?

矮小な命、というと聞こえが悪いですが。
小さな命と係わるということ
いつくしむこと
理不尽を知ること
赦すことを知ること
それを覚えられる最も効率の良い方法かもしれません。

「動物の命を何だと思ってるんだ!」

と発狂されそうではありますが。

結局殺処分されるしかないのであれば、
その命の活用を目指すべきではないだろうかと。

その一歩のハードルは下げるべきではないだろうかと。

まぁ発狂するような方々が
子々孫々の全財産を使って未来永劫に全動物の権利を保障するなら
そちらの方が良いとおもいますがね。

始めなければ何も変わりません。

「失敗してはいけない!」

で足を止め続けては衰退を続けるだけです。

もし、この文を読んでいる方が居たなら教えてください。

「動物を慈しむ心を持っているからペットを飼っているのか?」
「ペットを飼ったから動物を慈しむ心がはぐくまれるのか?」

どっちだと思います?

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