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2020.3.7 回想・引用・日記

*回想・星と土

100年前に住んでいた町を電車で通過した。線路脇に斜めに生えた標識が午後の日差しで光っている。晴れている日のその町のことは好きだった。実際には、ちょうど1年前にこの駅から電車に乗って、乗り継ぎでしか降りない駅でJRに乗り換えて、実家へ引っ越した。今日は帰りに星がよく見えた。実はベテルギウスは爆発してしまってもうないかもしれないらしいとネットニュースで読んだ。会社の尊敬しているフェミニストの先輩とプラネタリウムで宇宙を眺めた帰りに読んだのでとてもショックだった。星はもう死んでしまって、星もどきだけが有楽町の白く丸い天井で光っている。その人のことを他の人へ説明する必要があったとき、尊敬するフェミニストの先輩、ととっさに言っていた。わたしには尊敬するフェミニストの先輩がいると思うとあとから嬉しかった。夜寝る前に読んだ本の胸にきたパートとそうするうちに思い出したことを、iphoneのメモに半分朦朧としながら打ち込む。大人になるにつれて、東京のほとんどの場所を知っているような気がしてくる。「ここは会社のあの人が住んでいる町」「ここは昔の恋人と長い時間歩いた町」「友達の友達が、友達の友達たち3人とシェアハウスしていた町」。まだ行ったこともない、言葉も通じない、空気もないような土地を歩いてみたいと思う日が増える。

*引用 『わたしのいるところ』

人生の5年間、ただ一人意味のあるつきあいをしていた元パートナーと出くわしてしまう。彼を見かけて挨拶をするとき、この人を愛していたことに驚いてしまう。彼はわたしと同じ地域に残り、一人で暮らしている。見た目は良いが小柄で、眼鏡のフレームやほっそりとした手からは優秀なインテリのように見えるが、じつは馬鹿げた夢を追う野心家で、子供っぽい哀れな大人の男なのだ。
今日は本屋で見かける。作家になりたいと思っている彼は、よくここに来る。ノートにいつも何か書いていたが、彼の書いたものが日の目を見たことは一度もないと思う。

「これ読んだ?」最近賞を取った本を見せながらわたしに尋ねる。
「名前も聞いたことがない」
「ぜひ読むべきだよ」と言いながらわたしを見て、さらに一言。
「元気そうだね」
「さあ」
「ぼくは散々だよ。夕べは全然眠れなかった」
「どうしたの?」
「いつものごたごたさ。家の下のバルで若い連中が大騒ぎして。ほかの家を探さなきゃいけないな」
「どこ?」
「この古くさい町からものすごく遠いところ。海辺か、文明から離れた山の中の小さな家でも買うよ」
「そこまでやるの?」

絶対実現しないだろう。怖がりでそんなタイプではない。一緒に暮らしていたころは、彼の話を聞いてやり、どんな些細なことでもその問題の解決に努めたものだった。背中が痛いとか、人生の意味を見失ったとか言うたびに。でも、今はその激しい苦悶や泣き言には何の興味もなく、彼を眺めている。

整理したり記憶したりすることがまったくできない人だった。わたしと反対で注意力が散漫なのだ。冷蔵庫に何が入っているかチェックしないまま同じ物を買ってくるので、腐った食べ物を始末しなければいけなかった。何か邪魔が入っては遅刻するので、映画の冒頭を何度見損ねたことか。最初のうちは頭にきたが、そのうち慣れてきて、彼のことが好きだったから、許してしまっていた。

一緒に旅行に行くと、ウォーキングシューズとか、日焼け止めクリームとか、メモ帳とか、必要なものが必ず何か足りなかった。厚手のセーターや薄手のシャツをカバンに入れ忘れた。よく熱を出した。青白い顔をした彼が汗をかきながら毛布をかぶってホテルのベッドで寝ているあいだに、わたしはたくさんの知らない町を一人で観光したものだ。家ではスープや湯たんぽを準備し、薬局へ行った。看護師をしていたわけだが、嫌ではなかった。彼は早くに両親を亡くしていて、世界には君だけだ、と言ってくれた。

彼の家で料理をするのが嫌いではなかった。午前中ずっと買い物に費やし、町の端から端までまわって食材を準備した。おいしいチーズや色のいいナスを求めて、あちこちの地区を無意味に彷徨ったことを覚えている。家に着いて食事の準備が整うと、彼はテーブルについてこう言った。ぼくは君のスープとローストチキンなしでは生きていけない。わたしは自分が彼の世界の中心にいると信じていたから、当然結婚を申し込んでくれると思い、待っていた。

そしてある日、4月のことだったが、誰かがわたしの家のインターフォンを押した。彼だと思ったらそうではなく、わたしの恋人のことをわたしと同じくらい知っている女の人だった。わたしが会わない日に彼と会っている女の人だった。この女の人とわたしはほぼ同じ時間同じ恋人を共有していたのだった。彼女は別の地域に住んでいて、わたしから借りた本を彼がうっかり彼女に貸してしまったことから、わたしの存在を知ったのだった。その本に挟まっていた紙切れは、診察の領収書で、わたしの名前と住所が書いてあった。それで、彼との関係で腑に落ちなかったことすべてが突然とてもはっきりし、彼女は自分が不完全な愛人で、わたしとの三角関係だったことを理解した。

「この領収書を見つけたことや、わたしのところに来ることを彼に言いました?」ショックを鎮めてからわたしはこう尋ねた。その人は前髪を垂らしたやや小柄な女性で、繊細そうな目と血色のいい肌をしていた。話し方はゆっくりで、気持ちのいい声だった。
「何も言っていません。無駄だと思いました。ただあなたと知り合いたかったんです」
「コーヒーはどうですか?」

わたしたちは腰をかけて話し始めた。手帳を取り出してわたしたちの関係が同時に進行する過程を旅行、記念日、ぎっくり腰、インフルエンザなど、微に細を穿って照らし合わせた。長く、ひどく苦しい会話だった。情報と日付の事細かな交換によって秘密の糸がほどけ、知らないうちに関与していた悪夢のような状況が明らかになった。わたしたちはふたり生き残った仲間のような感じがした。彼女の言葉で暴露されたすべてでわたしは傷ついたが、わたしの人生が粉々に砕かれていきながら、肩の荷が下りていくように感じてもいた。日が沈み、わたしたちは空腹になった。そしてもう何も話すことがなくなったとき、軽い食事をとるためにいっしょに家を出た。

*日記。足を撫でる

申し込んでいた長島友里枝さんのトークが中止になったので、朝から友達の家に行った。彼女のおなかを撫でるときいつも指先がふるえる。もうすぐ生まれてくる子どもがここにいる。「わたしはあなたに会いたいです」と言葉にしても、こんなに丈夫な皮膚の下にいるからまだ彼には届いていないかもしれない。吉祥寺の百年でトークの返金をして貰って、そのお金でヴァレリー・フィリップスのzineを買った。NCT127の音楽が気持ちよくて本当は踊っていたけど、身体は真面目な様子で本棚を眺めている。渋谷へ電車で向かって、アンプリチュードでコーラルピンクのリップを春用に買った。感染対策で、BAさんがわたしの顔に触れることはできないらしくて、背後で応援されながらタッチアップした。映画館の裏のカフェで来週までの原稿を少し書く。

木のような人を好きになってから、言葉が永遠に止まらなくなってしまって整理に苦労する。スカスカの映画館で「初恋」も観た。映画はこうやって、世界を力づくで破壊したり、広げたり、それでも日々が続いていくことを思い知らせてくる。もうここにはない、てか見たこともない仁義への、恋以前のふたりへの、理不尽にぶっ叩かれた女の恨みへの、高倉健に憧れた女マフィアへの、日本映画への、映画への愛しさが大爆発して、なにも失うものがないわたしも裸足で走っていける気になった。電話で20分話しているうちに左足をつったので、お風呂でよくのばそうと思う。行かなかったパーティーの写真がLINEに届いているけれど、なんとなく今日は見ない方がいい気もしている。明日すべてまた考えればよいと思う。おやすみなさい。

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