見出し画像

11/4東吉野村天誅組第2回講演会②

2023年11月4日に東吉野村住民ホールで天誅組第2回講演会が開催されました。
オープニングまでの様子はこちら

そして、岡本彰夫先生(奈良県立大学客員教授)によるご講演がありました。
テーマ「天誅組と私」

なぜ今天忠組を語らねばならないのか?
(岡本先生は「忠」という字を使われています)

今、世界各地では戦争や争いが行われています。
人のせいにする人が多い中、国や人のために行動できる人はいるのか?
志を高く持ち、国民のために命を投げ出した天忠組から学ぶことがあるのではないかということを投げかけられました。
天忠組は他の者を守るために、責任を持つべき人は自分の命を投げ出しました。
そしていくつかのエピソードをお話してくださいました。
今の私には想像もつかないような高い精神性を持って天忠組は行動したのだと痛感しました。

岡本先生は春日大社の権宮司をされていました。
岡本先生が天忠組と関わるようになったのは、春日大社の社家であった富田光美(みつよし)のことを学ぶことがきっかけだそうでうす。
富田が和歌を習ったのが天忠組の書記方である伴林光平です。

幕末、ペリー来航によって日本は開国を迫られました。
当時、船の燃料にはクジラの油が使われていたそうです。
太平洋でクジラ漁をするために、日本を中継地点にしたいという思惑があったそうです。
また、日本と貿易をしたいというねらいがありました。
私はこのことを初めて聞いたのでとても興味深いと思いました。

幕府中心の国家でしたが、形としては何をするにも天皇に許可をいただくという形をとっていました。
孝明天皇は攘夷派で、条約を結ぶことをお許しになりませんでした。
安政5年(1858)大老井伊直弼は勅許を待たずに日米修好通商条約を締結しました。

尊王攘夷の過激派が、島津家の藩兵を抱き込んで京都に火をつけ、孝明天皇を拉致して尊王攘夷を進めようと計画を練っていました。
それが寸前に発覚し、寺田屋に集まっている激派の志士が薩摩藩に襲われました。(1862、寺田屋事件)
その志士の中に、土佐の吉村虎太郎らが含まれていました。
彼らが天忠組の中心人物になっていきました。

なぜ「大和行幸」が行われたかですが、当時、神武天皇陵の場所ははっきりとしていなかったそうです。
いろいろあり、最終的には孝明天皇が現在の場所と決め、宇都宮藩主が修復・修理をしたそうです。
ほぼ完成しつつあったのが文久3年(1863)のころでした。

また文久2年(1862)、春日大社の神鏡が2面立て続けに落ちました。
この非常事態により孝明天皇は縮み上がったそうです。
「神鏡落御」が翌年の「大和行幸」における「春日社に幸」の理由だったのではないかと岡本先生はおっしゃっていました。

また、ご講演の中で数々の貴重な資料を見せてくださいました。

先生はいわゆる書籍だけではなく、様々な文献・資料を通して深い研究をされています。
私が自分でそういった研究をするのはかなり難しいので、岡本先生や多くの研究者の方から学んでいきたいと思いました。

下は講演資料。EURO-NARASIAQ vol.23より抜粋。
(掲載許可をいただいています)
写真を撮ったもので分かりずらく申し訳ございません。










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?