歴史篇1 『どうして髭と呼ばれるようになったのか?』

それは当然、髭をはやしていたからだった。
私が髭をはやしたのは、29歳の時(1978年)、竹書房で「近代麻雀臨増(後に「近代麻雀オリジナル」と改題して今に至る)の編集長になった時だ。
 当時の私は171センチ・58キロ。白面の美青年(?)と言ったところで、百戦練磨の麻雀プロや漫画家、原作者とわたりあうにはなんとも押し出しに欠けていた。
 そこで髭をはやしてみたしだい。
 その前にも、24歳で編集長になったことはあった。三崎書房、歳月社での「幻想と怪奇」という雑誌だったが、その実は編集委員の紀田順一郎・荒俣宏・鏡明氏たちが方針や作家を決め、編集長とは言え、仕事は原稿集めとその編集整理という役回りだったから貫禄を云々する必要はなかったのだ。
 しかし、竹書房時代は「髭」などと呼ばれることはなかった。劇画編集者も作家も髭をはやしている人が多く、珍しくもなかったからだ。
 ではいつの頃からかと言うと、竹書房からミリオン出版に移り(この辺の事情はまた別の機会に書くことにする)、「S&Мスナイパー(以下は略してスナイパーと表記する)」編集長となって、それまでは編集長が一人で書いていた「編集後記」を、編集部全員が数行でも個性を出して携わっている仕事の感想などを書くように変革してからだ。
 初めのうちは「H」など姓のアルファベットで署名と代えていたのだが、それも無個性だと思い、私は「髭」と署名するようになった。
 その頃からか少し前か、マニアの集まりに取材などで行くと当時31歳の私は最年少。
まだSMブームが巻き起こり衆知される前の時代だから、マニア諸氏は10歳以上は年上の人ばかりだった。
 みんなそれなりの地位のある人らしく「編集長」と奉ってくれるのは主催者だけ。他のメンバーは当然の如く新参者扱いで、「おーい、そこの髭、飲み物買出しに行って」と、顎で使われる状態が続いた。
 それも仕方のないことだった。なにしろ「スナイパー」自体がSM雑誌の新参者で、それほど認知を受けていなかったのだから。
 しかし、号を重ね他の雑誌とは違うマニア視点の新しい雑誌だというのが浸透してく ると「髭ちゃん」とか「髭さん」に変わってきた。
 以上が「髭」と呼ばれるようになったきっかけだが、決定的となったのは、私が「髭の交遊録」と題したプレイ写真付きドキュメントを連載するようになったからだろう。
それについてはまたの機会に詳しく記すことにする。

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