偏執的作家論1 『団鬼六①』

鬼六さんに初めて注目したのは、74年、歳月社で「幻想と怪奇」の続行が決まっての編集会議の折、荒俣・鏡両氏が「面白い本が出ているよ」と「SMキング」を取り出したからだ。
 そこには「団鬼六責任編集」と表紙に仰々しく書かれていた。もちろん「奇譚クラブ」や「SMセレクト」などで、小説には接していたが、「鬼プロ」というプロダクションを立ち上げ、雑誌を出版して編集までするというのは、作家像とは違う驚きと同時に親近感を持った。
 それと、その情報をもたらしたのが、SMとは縁もゆかりもなさそうな荒俣・鏡氏だったということ。「SMセレクト」が、官能SM誌として鮮烈なデビューを飾ってから3年。SM雑誌読者の裾野は広がっている、とは感じていたものの、まさか彼らまでが、と怪訝に思ったのだ。
 しかしどうやら彼らは、「キング」の表紙がこれまでのSM雑誌と違ってファンタスティックな絵であること、内容が「エロチカ」に近いエロス追求型の方向性を持っていたのと、編集長が女性だったから物珍しかったので、私が喜ぶと思ったらしい。
 私は直感的に「この雑誌は売れないな」と感じたのを覚えている。
 その私が2年も経たない内に「鬼六番(大物に付く担当編集者のことを番と言う)」になろうとは……。
 歳月社を退社後、縁あって司書房の「別冊SMファン」に配属になった私は、目黒駅近くの鬼六屋敷へ、月に2、3日通うことになった。門構えも重厚な和風建築の広壮な屋敷だった。広い日本庭園へと続く縁側にステテコ姿のオジサンがぼんやり庭を見ていたのが、あとで知ると尊敬する辻村隆だったり、と鬼六さんの交友の広さには、ここで接するのだが、「キング」の編集部は予感通り解散していてなかった。
 私の仕事は、出社前に寄ってご機嫌伺いとともに、前日書きあがった原稿を受け取って、会社で赤(印刷のための記号)を入れ、挿絵画家にシーンを指定するのだった。まだコピーもファックスも普及していない時代だから、手渡し手作りだったのだ。
「赤」と言えば、これまでの出版社が作家の原稿には手を加えず、一言一句、句読点まで忠実に活字にするのに反して、この世界は検閲が厳しかったので、危ないなと思った語句は言い換えたり、バッサリと切り捨てたりと編集者の裁量に任されていた。
 これにはなかなか慣れなかったが、鬼六さんの文章は長いのが有名で、1節が原稿用紙一枚を越えることもある。当人は乗って書いているので気づかないのかもしれないが、途中で人称が変わることも多かった。こういう時には躊躇なく赤を入れさせてもらった。
 この司書房2年間の鬼六番の時期を第一次接近遭遇とするなら、まだ私は新米の編集者であり、この世界の人間関係にも疎く、鬼六さんは雲の上の人だったので、時々「今はどんな小説が流行ってるんだ」などと問われた時に、私の読書歴を話すくらいだった。だが、鬼六さんには私の推奨する作品を読んだ形跡はなかった。
 第2次接近遭遇は、それから3年後、私がスナイパー本誌、別冊の2冊の編集長として迎えられるのが決まった80年の正月だった。
 2流出版・竹書房の編集局長の座を蹴って、3流・ミリオン出版への転身だったから、今でもあの選択は正しかったのだろうかと思うことがある。だが、それによって「髭」という人生が開かれていったのだから、もって瞑すべし、なのだろう。
 ミリオン出版社長の平田氏に連れていかれたのは、スナイパーの原稿のためにカンヅメにされていた市ヶ谷の旅館だった。
 鬼六さんは、私の顔を見るなり「なんだ、お前だったのか」と、疲れた顔をほころばせて呟いた。どうやら名前と顔が一致していなかったようだ。
 こうしてまた鬼六番の日々が戻ってきた。しかしそれは3年前とは大違いだった。当時はSM雑誌の全盛期で、月に12誌が発行されていた。
 鬼六さんはその内の6誌に連載を持ち、日活ロマンポルノも鬼六物を次々と撮影していたから、そっちの関係者の出入りも激しかった。
 だから原稿取りも大変で、前はデスククラスが詰めていたのだが、それでは貫禄負けとばかりに、それぞれの編集長が直々に鬼六番になっている有様だった。さすがに旅館にカンヅメはやめたが、桜木町の坂上の鬼六邸には、いつもどこかの編集長が詰めていた。
 スナイパーは中でも一番新参で、6、7千円だった原稿料を一気に1万円に上げて、無理やり2本の連載を押し込んだので、周りからの風当たりは強かった。
 そうした中、1冊3泊4日で原稿取りをするのだが、私は2冊なので、月の内1週間は、鬼六さんと過ごすことになってしまった。
 だいたい1日目は、前夜徹夜で原稿を仕上げ、編集者を送り出してから寝るという鬼六さんのルーティンがあったので、夕方ころに伺い、気分の切り替えもかねて好きな所へ行くお供をする。
 なにしろ眼下にはすぐ、野毛や福富町の歓楽街がある最高の立地なのだ。
酒癖は、はしご酒が好きなくらいで、良かったので、ある程度飲むと眠たくなって帰宅して寝所に引き上げてくれる。
 だが、時には違うことも。「次はソープに行くぞ」精がつくものを食べて、酒が回ると急にそんなことを言いだす。なにしろまだ50前だったのだ。
「お金ないです」妻帯者の編集者が、原稿取りにそんなお金を持ってきているはずがない。まだカードなどない時代だ。
「出してやるから付き合え」とくる。機嫌が良い時には、金払いも良かった。それに案外シャイなので、そういう所に一人で行くのは恥ずかしいらしかった。
 だが、こちらが久しぶりの職業婦人とゆっくり楽しんでいると、ガラリとドアが開いて、鬼六さんと相方が闖入してくる。こっちはまだ挿入しているとこだった。
「なんだまだやってるのか。もうやめろ。酒だ酒」どこから調達したのか、ビール瓶を下げている。こうしてソープの個室で酒宴がはじまるのだが、鬼六さんでなければ許されることではなかっただろう。
 こっちだって自腹で入っていたら、断固出て行ってもらうのだが、オゴラレマンの弱いところで、鬼六さんの顔を見て縮こまったモノにタオルを巻いて、グラスを差し出すのだった。

次回②は淫靡非道な鬼六さんの実相に迫ります。

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