紳士録1 『無毛の人』

その人に初めて会ったのは、「鬼の会」でだった。80年あたり、団鬼六氏は年に1,2回「鬼の会」と称して、編集者や作家、絵描き、または友人を集めて、宴会をしたり、一泊旅行に行ったりしていた。
 友達の中には、立川談志や鬼六映画の女優陣、刺青師など幅広い人達がいたので、いつも同じような出版界人としか交わっていない私などは楽しみの一時であり、緊張する一時でもあった。
 ある時などは、急に石和温泉に一泊旅行ということで、各出版社の編集長クラスが召集された。行ってみると関東を縄張りとするヤクザの総長の会のゲストだった。鬼六さんもさすがに一人では気が引けたのか、我々をお供にしたようだ。
 なにしろ旅館全体がコワモテの組長やボディガードで占拠されたようなものだから、私達ウラナリは身の置き所がない。お風呂に行けば、刺青の間を縫うような有様だし、宴会場ではいつまでも続く挨拶の応酬に、いつ箸をつけていいやら勝手がしれずオロオロするばかりだった。
 宴会が始まると組長クラスの人がお供を連れて私の横に座って、しきりに酒をすすめてきた。なんだろうと思っていると、その頃都内に10軒近くに増えてきていた「SMクラブ」の話だった。私を選んだのは、スナイパーが一番SMクラブの取材を積極的にやっているのを鬼六さんあたりから聞いてきたのだろう。
「どういった客がどのくらい来るのか? それに対して、どういうサービスをしたらいいのか?」
 もう私はお白州に出た罪人のようにペラペラと知っている限りをゲロしましたとも。
 それから半年たった頃から、池袋・渋谷などにヤクザ系SMクラブが進出してきたが、もしかしてあの会の私のゲロが誘引だったのかもと思ったものだ。
 
 長い前書きになってしまったが、「鬼の会」で初めて会った人、とはヤクザさんのことではない。それどころかマスコミ系から国会議員になった人だ。
 その人は「鬼の会」で少しばかり話しただけなのに、それから数日すると、いきなり編集部に現れた。そればかりか、「写真が欲しい」とストレートに頼むのだ。
 有名人だけにSMの編集部にいるのが人の目に止まってはと懸念した私は、近くの喫茶店で待っていてもらって、写真を選んだ。
 カラー写真は35ミリのポジフィルムだから、当時の幻灯機にでもかけないと見にくいので、モノクロの紙焼きということになる。
 紙焼きは告白文中のカット写真などに使うために、かなりストックがあった。私はその中から、様々な良さそうなパターンを選んで喫茶店に急行した。
 だが、私のセレクトをパラパラとめくった議員先生は「これは自分の好きなモノではない」と一蹴した。そして声を潜めて「毛のないのはないのかなー」と言うのだった。
 私はそれまで「剃毛マニア」とか「パイパンマニア」という人がいるのは本で読んで知っていたが、実物にお目にかかったのは初めてだった。思わず薄くなった先生の髪の毛を見てしまった。それ以来、彼は私の中で「無毛の人」という仇名になった。
 しかし困った。当時は規制で陰毛は出せないので、普通に撮った写真に「スミベタ」
という黒インクで毛を塗りつぶす処理をして出版していたのだ。毛を剃った写真は少なく、あったとしても亀裂や内部が見えると困るので、そこに股縄を食い込ませて、中身は見えない写真しかなかった。毛もなく縄もない写真など「SM雑誌」では売り物にな
らないのだから、当然のことだったのだ。
 それでも大部分のマニアはナマの写真に喜んでくれるのだったが……。
 こうして勇を奮って私を訪ねてくれた議員先生の希望に応えることはできなかった。
 ところが、それから2年ほど経つと、ビニール本や裏本、ビデオとの競争のために、私達は撮影の前にモデルの股間にうずくまって恥毛を剃るのが日課になるのだった。
 剃り跡も青々しい大陰唇にオイルを塗って霧吹きで水滴をつける――毛さえなければ大陰唇までは性器ではない、という取り締まり側との了解からのギリギリの対抗策だった。まさに剃毛マニアのパラダイスなのだろうが、私には煩わしい作業でしかなかった。
 その頃、議員先生が来たならば、墨ベタの入る前のパイパン写真を好きなだけあげることができたのになぁ。 

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