「従わない」という「従属」、もしくは日和見的日常について

 先日、安冨歩の満州の本の読書会を知人から急に誘われたのですが、仕事などの理由で出席できませんでした。

 私自身は、ここ数年は植民地解放戦線みたいな生活を送っていて(どんな生活だ)、本来なら「魂の脱植民地化」にシンパシーを感じてもおかしくないんですけれど、安冨さんの本をペラペラと斜め読みして結構違和感があるなあ、と。

 私みたいに外部規範の内面化に抗い、会社の評価制度なんてクソ食えらえみたいな態度で接している人は周りにはいない。でも、彼らが外部規範を内面化して自分の考えや言葉だと思い込まされているかっていうと、そういう人もかなり少ないというのが感覚です。

 私が思う大多数の姿勢は簡単に言えば「面従腹背」ってことになるのでしょう。会社のような組織が出すメッセージに対して大多数は多かれ少なかれ懐疑的です。しかしながら、それに抗う言葉・道具を持たないし、抗うことによって良くなるという希望も持てないので、結局抗うことを諦めてしまいます。偉い人の前でだけ賛同しているふりをして、普段はできるだけ負担が増えないよう手抜きをするという態度は、多くの人、たまには私も取っているんじゃないかと思っています。

 この間、アンドルー・ゴードンの『日本労働関係史 1953-2010』を読んで、国家総動員体制下において組織化したストライキやサボタージュがあっただけでなく、個人レベルの手抜きが横行して、それらが「サボ」って呼ばれるようになった(「サボる」の語源)ってことに驚きました。

 どんな権力、たとえ大日本帝国であっても、万民の内面にアクセスすることは難しい。そもそも、権力が目的を実現するのに対象を内面化する必要は実はなくて、抵抗勢力が現れなければいいんですよね。言葉と方法によって個人の不満を集約するような抵抗勢力が。抵抗勢力の出現が期待できない状況下においては個人の不満はかき消されてあたかもないことになってしまいます。バラバラの個人は権力の光を反射する鏡となって、一部の人間の内面化を後押しするでしょう。

 権力というのは「同意」を正統性の源にするだけでなく、「棄権」もまた源にしているということは、投票率の低い地方議会の議員・首長達を見てもわかることです。

 他人の言葉が内面化するのではなく、他人の言葉を拒絶しながらも対抗する言葉がないというのはどういうことなのか、戦前の事例を挙げましょう。

 日露戦争の時、戦勝祈願を建前にした弾除けや徴兵逃れの祈願が流行るということがありました。国の締め付けで日中戦争の頃には途絶えてしまったようですが、同じように弾除けを祈願した千人針はアジア太平洋戦争の頃まで女性達に作られ戦場に行く男性達に渡されていました。

 彼ら/彼女らが、「死して靖国の神になれ」という大日本帝国のメッセージを内面化していたわけじゃない、でも、反戦思想のような対抗する言葉がなかったから抵抗することができなかったと言えるのではないでしょうか。

 ということで話が散漫になりましたが整理します。誰しもが魂を植民地化されるわけではない。ただ、多くの人が不満を持ちつつも言葉がないために反抗を諦めることにより、権力は彼らを鏡として増幅する。その増幅した光が、植民地化された個人を苦しめるであろう。抗うためには、抵抗言説があって、きちんと信頼されるようにしないといけないよね、というこんなところでしょうか。

 アンドルー・ゴードンの読書会でもやりますかねえ?


<参考文献>

アンドルー・ゴードン(2012)『日本労働関係史 1953-2010』岩波書店

岩田重則(1996)『ムラの若者・くにの若者:民俗と国民統合』未來社

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