サンデルは便益を天秤にかけたり、手続きを重視したりしただろうか_高江のヘリパッド建設問題についての山本一郎氏の論考から考える1

山本一郎さんという投資家で発信力のある方がいます。一部では、「切り込み隊長」として名前が通っているのではないか、と。山本太郎でも山田太郎でも山本一太でもないのでお間違いなく。

その人が、高江のヘリパッド建設問題について以下のような論考を書きました。

高江のヘリパッドとノイジーマイノリティの雑感

http://lineblog.me/yamamotoichiro/archives/9251290.html

「雑感」という文章に対して少々大人げないですが、「マジレスポンス」を返していきたいと思います。

「どうしてもこの手の話はトロッコ問題というのが存在するわけでして、左翼の大好きな白熱教室的正義感の世界があります。150人の高江の人たちの生活と、日本の安全保障を考えたとき、公共の利益のために高江は犠牲になるという理屈をどう捕らえるか、みたいな話です。

(略)

きちんと法的手続きをして、問題となる地域に住む人たちの生活の保障もしっかり行って、ダム建設での村閉めや用地収容を粛々とやるのが一番よいのではないかと思ったりもするんですが、どうなんでしょうか。まあ、そう簡単にいかないからいつまでも揉めているのかもしれませんが。」

 山本氏が「白熱教室」と呼んでいるのは、アメリカの政治哲学者のマイケル・サンデルが行った一連の授業「Justice」のことでしょう。私が疑問視したいのは、サンデルは対立する二つの価値、ここで言うならば「150人の高江の人たちの生活」と「日本の安全保障」を比較・計算して社会問題を解決することが正義であると唱えたのかということ。

 一般的には、Justiceの冒頭においてサンデルがトロッコ問題を取り上げたのは倫理的なジレンマを説明するためだと理解されています。見ず知らずの1人を犠牲にして5人を助けるのか(ベンサムの功利主義)、その1人を犠牲にしないで5人を見殺しにするのか(カントの義務論)のジレンマと。しかしながら、その後の議論において、種類の違う価値を同じ尺度で測ることはできるのかという疑問(批判?)をサンデルは投げかけており、冒頭のトロッコ問題はそこへ導く為に例示されたのだと理解できます。サンデルは、加えて、古代ローマで娯楽の為にキリスト教徒の人権が阻害されていた例も挙げ、全体の幸福の為に少数者が犠牲となる問題にも触れています。

 サンデルの著作について「Justice」以外に直に読んだわけではないので少し説明に自信がないのですが、以下のブログの記事を参考にサンデルの主張を掘り下げてみます。価値から中立とされる手続きが、「善き生」(共通善)よりも優先するというロールズのリベラリズムをサンデルは批判します。コミュニティに共通する善とは何か、熟議を通して追求することが正義だよ、ということになるのではないか、と。

自治体職員の読書ノート「【1109冊目】マイケル・サンデル『公共哲学』」

http://hachiro86.hatenablog.com/entry/20110706/p1

(ブログの著者と違って、サンデルは自分の結論に巧みに誘導していると、私は思いますが)

 こう考えると、山本さんが言うような単純に便益を足したり引いたりすることや手続きを粛々と進めることに対して、サンデルは批判的であると言えるのではないか、と。

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