見出し画像

キブツ:イスラエル(組織)

先日イスラエルにある集合団体「キブツ」を知った。
衣食住と地域労働をする事でお金も支給される。
地域を守りながら共に生きていく道しるべになりそうだと感じた。
キブツ【kibbutz】
 ヘブライ語で〈集団〉を意味し,イスラエル建国運動において形成された独特の農村形態をいう。 それは,構成員間の完全な平等,相互責任,自己労働,個人所有の否定,生産・消費の共同性の原則に基づいて組織された共同体で,ふつう300~500人程度の規模で,なかには1000人を超すものもある。

キブツ - Wikipediaではこう書いてある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/キブツ
・他の国にも共同社会的な事業形態はあるが、イスラエルでキブツが果たしたほどの重要な役割を持った自発的な集産主義的共同体は、他にはない。イスラエルにおける彼らの重要性はイスラエルの建国にまで遡ることができ、また現在でも重要な存在である。

■キブツとはイスラエルの共同農村である。20世紀の初頭ユダヤ人が祖国再建を夢見て パレスチナの荒野を開拓しはじめた頃、青年たちは社会主義の理想を持ってキブツを作った。ユートピアの実践として世界中に知られている。

キブツ
https://keikosato.wordpress.com/kibbutz/
言葉で「農業共同体」と言っても、理解できることはほとんどない。
そして、現在のキブツは年々変化しており、
「全て共同所有・平等」という形を維持している所はないであろう。
ここからは、全くの個人的見解からキブツのススメをしたいと思う。

なんと言っても、心の平安・自由・自然がある。
それは、日本での日常を経験しているからこそいえることかもしれない。
確かにキブツは閉ざされた空間であり、ひとつの村組織のように、
その中でしか通用しないことや、私たちの日常的感覚が麻痺するところでもある。
全ての人々が顔見知りであり、ご近所であり、
キブツから一歩もでなくても、生活していくことができる。
全く、不思議なところ・頭が豆腐のようになってしまうところである。
日本でストレスの塊のようになった人間にとっては、キブツほど安らげるところはない。
キブツニーク(キブツで生まれ・育った人間)に言わせれば、

「キブツはつまらなく、刺激がなく、プライバシーもなく、
一生をここで生活するなんて考えられないよ。
でも、年をとってからは又キブツで生活したいね。」と、言う。

現在、若いキブツニークは兵役が終わるとそのほとんどが、
いわゆる「普通の生活」を求めてキブツを去っていく。
しかし、週末には、そして数年後には、再びキブツに戻ってくるのである。
キブツほど、平和に人間らしく、安らかに生活できるところはないからである。
「普通の生活」において生じる、煩わしさ・人間関係・社会的葛藤からの逃避かもしれない。

現に、私はそうだった。全てから逃れ、ただ安らぎを求めて二度目のキブツを訪れた。
そして、キブツで一生を過ごしたいと切望する。
若いキブツニークからは、「信じられない。日本ほどいい国はないのに・・・」
と言われるが、それはお互いが「ないものねだり」なのだと思う。

物質的不自由のない日本で生まれ育ち、自由の中での囚われの身となって、
何が本当の意味での自由と安らぎなのか?
を求める私と、
精神的な自由と安らぎが当然のキブツの中で生まれ育ち、外界の刺激的・物質的自由を求めるキブツニークとは、根本的に意見の相違があって当然である。

に、しても・・・・
キブツは私にとって楽園にも等しいところである。
現在は、多少の不便はあるにしてもキブツの外には自由に出ることも、
町に買い物に行くことも普通のことである。
キブツの中は緑豊かで、芝生が敷き詰められており、ある人は裸足で歩き、
行き交う人々は言葉を交わし、世界一幸せな犬達が駆け回り、
急かされることもなく、仕事が終わればのんびりと自分の時間を過ごし、そして、日が暮れる。
そんな単純な日常である。きっと、この単調な日常に耐え切れない人もいるだろう。
それはそれである。
この単調で、変化に乏しい日常を楽しむことができた時、
もう、あなたはキブツから離れられなくなっていることだろう。

ボランティアについて
キブツはボランティアにとっての天国・楽園・極楽浄土。始めの一ヶ月は、
この非日常に慣れるための試練期間。
その後は、誰もが超リラックス・モードで楽しむのみ。

世界中から・・・と言っても過言ではない。
(キブツによっては、好みが偏る場合もあるけれど)
西欧・北欧・北米・南米・極東・南ア・トルコ・・・・・東西南北人種問わずである。
その中で一番顕著なのは、南アと韓国人。そして、集団でやってくるのが、北欧組。

前者は、キブツを足がかりにイスラエルでの労働をもくろみ、
後者は、輝く太陽を求めてバカンスである。
その他は、旅の休憩であったり、海外生活体験組であったりする。

その魅力は、なんと言ってもお金がかからないこと。衣・食・住が提供され、
単純労働のみ、お小遣い付きである。

それならば、危険を顧みずちょっと行ってくるか・・くらいの価値はある。

ほとんどのボランティアが18歳~20代前半で、高校卒業後や大学の長期休みを利用して来ている。
そのため、秩序がない!みんなが好き勝手、やりたい放題で、毎日がドンちゃん騒ぎとなる。
多いところでは100人のボランティアがいたりするので、ボランティア専用パブがある。

此れはあまりいただけない。(個人的にね)
もし、交流をもつことが目的ならば(大方そうであるが)
20人ほどのボランティアが限界である。
そういうキブツの方が、ボランティア同士の仲も深まり面白い。

パブで週末はみんなで楽しみ、酒を飲み笑い語り踊る。
そして、二日酔いの顔で昨夜の出来事をまた語るのである。
マンネリな日常生活・週末のパブではあるが、それだからこそ、世界中から習慣も言葉も通じないような人種が集まり、理解しあうための貴重な時間となるのである。

ここまでは表層でどうやって組織されたのか・・・・・・やっぱりな(苦笑)
ロスチャイルド家のイスラエル建国への働きかけ(パレスチナの利権獲得)は、第一次世界大戦終結と同時に急速に高まる。
ロスチャイルドを含む数人の有力なユダヤ人は、第一次世界大戦終結の際、敗戦国ドイツに課せられた条約の文言を任せられた。条約により、ロスチャイルド家はドイツが所有していたパレスチナ(トルコの領土)の「鉄道権」を得た。また、ロンドンのロスチャイルド家は、トルコ共和国に貸し付けを行なっており、その額は1億ポンドに迫るものだった。第一次世界大戦後、敗戦国側だったためにトルコ政府が崩壊すると、ロスチャイルド家はそのトルコに対する貸し付けの未払いを理由に、パレスチナに対する権利を要求した。このようにしてロスチャイルド家は、パレスチナに関する方針を押し通す確実な手段を得る道を開いたのである。

また、ロンドンのロスチャイルド家はイギリス政府内の代理人を通して、イスラエル建国へとつながる階段を強固に築いた。
第一次世界大戦後、イギリスはパレスチナに対する「委任統治権」を与えられたが、政府はロスチャイルド家の命ずるところに従った。1917年11月2日、イギリス外相バルフォアは、ロンドン・ロスチャイルド家のライオネル・ロスチャイルド宛に、「イギリス政府はパレスチナでのユダヤ人の国家建設を支持し、努力する」事を確約した書簡(手紙)を出したが、これが有名な「バルフォア宣言」である。

この「バルフォア宣言」は書簡形式をとっているが、この叩き台をつくったのはシオニズム運動の世界的指導者ハイム・ワイツマンとライオネル・ロスチャイルド自身で、彼らは既に1917年7月18日の時点で宣言の「草案」をバルフォアに手渡していたのである。
(ちなみに、この段階で入植地に提供された資金は170万ポンドに達していたが、そのうちの160万ポンドはライオネル・ロスチャイルド自身のポケットマネーであった)。

パレスチナへのユダヤ人の入植活動は、ハイム・ワイツマンの指揮下で行なわれた。
パレスチナのユダヤ人入植地は、1900年には22であったが、1918年には47まで増えた。
1909年には「キブツ」と呼ばれるユダヤ人の集団農場が作り始められ、ユダヤ人の町「テルアビブ」ができた。

このパレスチナへの入植活動には、当然、多くの資金が必要とされた。しかし、それは心配する必要がなかった。
なぜなら、パレスチナで活動していたユダヤ人たちに、「匿名の寄贈者」というサインの付いた「小切手」が送られていたからだ。
この膨大な資金によって、続々とユダヤ人たちがパレスチナに入植し、その金によって住宅、学校、農業地を購入することができたのである。またその資金援助によって、その地で採れるあらゆる農作物が当時の世界市場よりも高く買われ、全収穫物が毎年買い付けられるということが行なわれた。
後にこの「匿名の寄贈者」の正体は、フランス・ロスチャイルド家のエドモンド・ロスチャイルドであったことが公にされた。(フランスとロンドンの両ロスチャイルド家は、1878年以来、パレスチナの土地を買収し続けてきたのだ)。

キブツとは、パレスチナの利権(石油)獲得を目論むロスチャイルド家がイスラエルを建国した歴史の中で設立されたようです。またその背後にはロスチャイルド家による世界管理戦略があった。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2008/01/609.html