第7章 ナナ・アンパドゥ(アフリカン・ブラザーズ・バンド)、 パット・トーマスとA.B.クレンツィル

ガーナのハイライフ・シーンは、同国のエレキ・ギターバンド・ハイライフ・リーグのトップ・ランカーであるアフリカン・ブラザーズ・バンド(=The African Brothers Band)抜きで語るのは不完全だろう。

グループのリーダーは、1960年代初頭にバンドを結成した、ガーナのクワフ地方出身のナナ・アンパドゥ。

彼らの最初の大きな成功は、1967年にリリースされたレコード "Ebi Tie Ye(Some Live Well)"であり、後にこれは劇にもなった。この曲は、社会の富裕層と貧困層との格差について歌われている。

伝統的なアフリカのファッションでは、このトピックはたとえ話の形で扱われている。

曰く、「より大きな動物は、キャンプ・ファイヤーの火の暖かさから、小さなものを押しのける」

その最初のヒット以来、アンパドゥと彼のミュージシャンや俳優のグループは、アフリカ各地を巡業し、そして同様にいくつかの国際的なツアーも行った。バンドにはトラップ・ドラム、コンガ、マラカス、クリップのフル・リズム・セクションがあるだけでなく、クロス・リズムの設定にもギターが使われている。グループは4つのギターを使い、キーボーディストである “アンシエント(=Ancient)” アムアー(=Amuah)の独特のタッチによって後押しをされていた。

アンパドゥはエネルギーを染み込ませたかのような男だ。しかし、彼はヨーロッパのスーパースターのようにステージを支配したりはしない。それどころか、彼は(聴衆に)手を差し伸べてから突然、少しのギター・リフ、またはソロで参加してきて、バンドの音楽をより高いレベルの強度に送り出す。それから彼はまたしばらく離れて、再び戻ってくる。毎度、プレイヤーやダンサーのバイブスを魔法のように上げる。

彼のバンドは最高品質のハイライフをプレイするだけではない。

アンパドゥは常に彼の多数のファンのために新しいダンスビートを作成してきた ー『Locomotive Train』では、ファンキーなハイライフ・リズムを。 『Afro Hili』では、ハイライフとアフロ・ビートの組み合わせ。 そして、ハイライフとレゲエの美しいブレンドが、今日では”アフロ・レゲエ”と呼ばれている。

アンパドゥのかつてのパートナーはエディ・ドンコル(=Eddie Donkor)で、彼はもう一人のギターの達人だったが、彼自身のバンドを結成するべくバンドを去った。しかし、アンパドゥの華麗な音楽家の才能の使い道は果てることはない。

一人は女性ボーカリスト、ムンビ(=Mumbi)。その切なく哀愁の混じった声は、アフリカン・ブラザーズのバブリングなリズムにぴったりと合う。もう一人は、現在ザ・ヒーローズ・バンド(=The Heroes Band)でも活躍するオセイ・コフィ(=Osei Kofi)である。

1963年にアフリカン・ブラザーズ・バンドが結成されて以来 -エンクルマ大統領のアフリカン・ユニティ・アソシエーション設立への取り組みを評価して選ばれた名前- アンパドゥは約60枚のアルバムと100枚以上のシングルをリリースした。これらすべてのレコーディングとツアーに加えて、アンパドゥはガーナのミュージシャン連合の副会長(現事務総長)であり、新しく設立されたガーナ国立民俗評議会のメンバーであることにも成功した。

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ザ・スウィート・ビーンズ(=The Sweet Beans)の有名なガーナのリーダー、パット・トーマス(=Pat Thomas)は1950年に生まれた。

学校に通う男の子として、彼は叔父と一緒にクマシに住んでいた。彼の叔父であるクワベナ・”キング”・オニイナ(=Kwabena Onyina)は、1950年代にプログレッシブなジャズ・コードをギターのハイライフ・バンドに持ち込んだ人間でもある。

しばらくオニイナのバンドでプレイした後、パットはダンスバンド・タイプのハイライフに切り替えて、ブロードウェイ・ダンス・バンド(=Broadway)と、その後身バンドであるウフール・ダンス・バンド(=Uhuru Dance Band)に参加した。

1972年に、彼とエボ・テイラー(=Ebo Taylor)は、ガーナの一流のディスク・ジョッキーのうちの2人によって、ブルー・モンクス・バンドを結成するために招待された。マイク・イーガンとカール・バナーマンである。このグループは、ガーナのココア・マーケティング・ボード(=Cocoa Marketing Board。現Ghana Cocoa Board。ガーナの農業関連組織)が独自のバンドを設立することを決定するまで続いた。

パットが1978年まで率いたスウィート・ビーンズだが、数年後、パットはドイツに定住し、そこで彼は "パット・トーマス1980"と呼ばれるディスコ・ハイライフを発表した。彼は現在カナダに住んでいて、レコーディングを続けている。(※1995年時点)。1991年にリリースされた彼の最新のヒット曲は "Sika Ye Mogya(金は血)"である。

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A.B.クレンツィル(1950年生まれ)は、ジ・エル・ドラドス・ステイト・アボソ・グラス・ファクトリー(=The El Dorados State Aboso Glass Factory。アボソ州にあったグラス・ファクトリーと言う国営企業で結成されたバンド。)および、ランティクス(=Lantics State Hotels Corporation)で演奏した後、タコラディから港町テマに移り住み、ザ・スウィート・トークス(=The Sweet Talks)のリーダーとなる。

1979年に解散する前に、バンドは『Adam and Eve』などの人気アルバムを次々とリリースした。他には、『Kusum Beat』、『Spiritual Ghana』、『Hollywood Highlife Party』(アメリカで録音)などがある。

スマート・カンサー(=Smart Nkansah)はブラック・ハスラーズ・アンド・ザ・サンサム(=Black Hustlers and the Sunsum)を結成した。

エリック・エイジマン(=Eric Agyeman)はソロ活動を開始し、A.B.クレンツィルはスーパー・ブレインズ(=Super Brains)を結成、さらにバンドとコンサート・パーティーを兼ねたアヘンフォ(=Afenfo/Kings)を結成した。

それは、その性的な風刺で物議を醸したアルバム『Moses』をプロデュースしたアヘンフォのバンドだった。

その他には『Tronto by Night』のような1985年以降のヒット曲はカナダで録音され、彼のバンドは広範囲に海外ツアーを行っている。


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