第2章 “Yaa Amponsah” 物語

“Yaa Amponsah”はガーナで最も人気のあるハイライフのナンバーであり、そのメロディとリズムはガーナ人向け、12小節のブルースはアフリカ系アメリカ人向けでもある。 それは、今日ではたくさんの異なる歌詞がアレンジされているスタンダードな音楽パターンだ。

“Yaa Amponsah”は、ガーナでは通常”ギターバンド(・ハイライフ)”、”パームワイン”、または”カントリー”音楽と呼ばれる音楽ジャンルに関連付けられる。 主にギター音楽のこのガーナスタイルは、西アフリカの固有のハープリュート(=またの名をダイタル・ハープ。ハープとリュートの特徴が合わさった弦楽器のこと。セネガミアン・コラ、リベリアン・ルウ、ヨルバのモロ、そしてアカンのセプレワなど)の弦を摘み取る時の、西アフリカ独特のクロス・リズミカルな”ツー・フィンガー”テクニックが起源である。それはやがて、スパニッシュ・ギターの奏法に移行された。

このギターのアフリカナイゼーションを最初に開拓したのは、リベリア沿岸のクル族だった。彼らはヨーロッパ人が西アフリカにやって来て定住するずっと前から有名な海の人々で、18世紀後半からセーリング船、その後の蒸気船内で、ヨーロッパ人とアメリカ人に雇われていた。

クル族の好んだ楽器は、コンサルティーナ、ハーモニカ、バンジョー、そして何よりもギターのようなポータブル・セイラーだった。その結果、クル族たちは、アフリカ伝統の”ツー・フィンガー”テクニックに基づいたギターパターンを多数開発することに成功した。

基本的なものは”メインライン(=mainline)”と呼ばれ、今日のすべてのガーナのギタリストがマスターしなければならないものである。もう1つは”ダゴンバ”(=dagomba)で、故クワ・メンサーが私に語ったのは、”dagomba wo ye tangebu”と言うリベリアのクル表現の短縮系だ。 音楽学者のシンシア・シュミット博士によれば、これは”タンゲブ”と呼ばれるダゴンバ船の船員の電信または配線(つまり”wi ya”)を意味している言うことだった。 さらに別のギター・パターンは、蒸気船に乗った炭坑夫の仕事からその名前をとった”ファイヤーマン(=fireman)”。クル族の人々は、多くの西アフリカ沿岸の町(アクラ、フリータウン、ポルト・ノヴォ、ラゴス)に、”クル・タウン”と呼ばれる集落を有していたため、これらの初期のアフリカのギタースタイルは広く普及し、ドックサイドの飲酒場や、パームワイン・バーでローカルの音楽スタイルとブレンドされていった。

ガーナのパイオニア的ギタリストであるジェイコブ・サムまたの名を”クワメ・アサレ”は、クル族から楽器を教えられ、彼のクマシ・トリオ(セカンド・ギタリストにH.E.ビニー、ルンバ・ボックスにクワー・カンター)が、”パームワイン”と、さらに先住民伝統の”オドンソン(=odonson。別名アシャンティ・ブルーズ)”の曲を、誰よりも早く最初に録音を行ったが、これは、1928年6月にロンドンで行われ、Zonophone Gramphone CompanyのEZシリーズ(1993年にロンドンのHeritage RecordsによってCDで再リリースされた)の一つだった。

“Yaa Amponsah”はこれらの曲の1つ(EZ1001)だったが、実際には、その曲は少なくともその10年前からガーナに存在していた。 今は亡きビーティー・ケースリー・ヘイフォードは、1987年にアクラで行われた講演で、"Yaa Amponsah"は、1918年にイギリスの商人、S.バーネットによってアペドワに送り込まれた地元のココア・ブローカーのグループと関係があると述べた。彼らは町で最初のモダン・ダンス・クラブを設立したのだ。"ヤア・アンポンサー(=Yaa Amponsah)"はその中の一人の姉妹で、ダンス・クラブでハイライフと社交ダンスを教えていた。アチモタ・カレッジの教師、W.E.ウォードは、1924年と1927年にキビ(=Kibi)で演奏されたナンバーを聴いたことを思い出し(Ghana Copyright News、Issue One、1990を参照)、彼の出版した"Music in the Gold Coast"(Gold Coast Review、Volume 3)には、GおよびBフラットのキーの"Yaa Amponsah"の、3つの異なるバージョンが掲載されている。

したがって、”Yaa Amponsah”は起源が不明なアカンのポピュラーソングだが、クマシ・トリオの1928年の録音はそれをいろんな場所へ広めた。 E.K.ニアメやE.T.メンサーのテンポス(Decca WA 971)など、後の多くのガーナのバンドが独自のバージョンをリリースした。それは”ヤポンサ(=Yaponsa)”と言う名前でナイジェリアにまで広がり、音楽学者のクリス・ウォーターマンによると、第二次世界大戦前にラゴスの”パームワイン”ミュージシャンに人気のあるギター・パターンになったと言う。

最近では、”Yaa Amponsah”パターンの”ディスカバー”バージョンが、ジョージ・ダーコのような”バーガー・ハイライフ(=Burgher Highlife)”ミュージシャンによって使用されていたりする。それの最新バージョンは、アメリカのシンガーであるポール・サイモン(サイモン・アンド・ガーファンクル)が、1990年のアルバム「Rhythm Of The Saints」に収録された”Sprit Voices”にそれを織り込んだ。このアルバムのギターは、長年ガーナにいたカメルーン人のビンセント・ングニ(=Vincent Nguni)によって演奏されている。

ポール・サイモンは”Yaa Amponsah”のクレジットをジェイコブ・サムにしているが、サムが実際に作曲したという明確な証拠はない。さらに、サムは1950年頃に亡くなったため、25年間の著作権保護期間は終了した。その結果、”Yaa Amponsah”は匿名のトラディショナル作品として分類され、ポール・サイモンのロイヤリティは、ナショナル・フォルクローレ・トルスティーズ(=National Folklore Trustees)の設立を支援している。その他のメンバーには、クー・ニモ、ナナ・アンパドゥ、プロフェッサー・コフィ・アニドホ、オスカルモア・オフォリ、ドクター・オウス・ブレンポン、コロネル・アムズ、そして、著作権管理省のベティ・モルド・イドリス、バーナード・ボスンプラが含まれる。

外国人のポール・サイモンがガーナのトラディショナル作品の商業化に対して、きちんとロイヤリティを支払っているという事実は、PNDC 1985の法律110と、第三世界の民間伝承を保護するための、国連リンク世界知的所有権機関(WIPO)の勧告の両方に沿っていて、先進国による途上国からの搾取を防いでいる。



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