ゴジラ -1.0 のネタバレ徒然感想

2016年、大ヒットした「シン・ゴジラ」。庵野秀明監督作だけあって色々心配された作品だが、異例の大ヒットを遂げた。
一方その次作として公開されるゴジラ作品、非常にプレッシャーが有るとされたが、なかなか好みであったのでまた徒然。

・メロドラかと思えば乗り越え系ゴジラ

 例のごとく予告編もあまり見てなかったので、戦後直後ということ以外は前情報無しに見に行ったため、誰がどういうのなのかさっぱりであった。故に最初の戦災シーンからの典子転がりと「ヒューマンドラマ成分濃いめかなあ」と思い、ちょっと心配したところもあったが、結果として(展開の尺が長かったり短かったり感じたところもあったが)きちんと重要な要素として活きていたのがしっかりしていた。もちろん恋愛というかラブ要素がシン・ゴジラほどないわけではないが、それでもあくまでメインとまではしていない。
 メインはどちらかといえば「生きること」を乗り越えることにあった。キャッチフレーズが「生きて、抗え」ということもあり、戦後の惨状に追い打ちをかけてくる現実から各々が乗り越えている、そんなところがメインなストーリに思えた。

・戦時戦後日本とゴジラ

 主役の敷島は、戦中の特攻隊員である。もはや戦時戦後ものにはつきものな特攻要素では有るが、特攻から逃げた若者でもある。
 対して大戸島の整備士である橘は、特攻から逃げたことに少しばかりの理解を示す。ところが、ゴジラを撃つことから逃げ、そのせいで守備隊・整備員が全滅した際は、彼にその怒りをぶつけ写真を押し付けるなど、許しはしなかった。また実家の隣に住む澄子は空襲で家族を失い、特攻から逃げながら生きて戻ってきた彼を責め立て、嫌味をぶつけていく。
 非常に典型的な戦後日本の話ではあるが、ソレ故に端的に戦後日本の苦しさ(辛さも息苦しさも)描きつつ、しかしとて中~後半からの澄子から出てくる「良き隣人のおばさん」に助けられる感は、やはり独特なこの国の隣組感がある。
 そんな戦後日本を破壊していくのがゴジラだった。戦火で何もかもを失い「ゼロ」になっていた人々がようやく立ち上がり始めた時、それをマイナスに落とし込んできたのである。

・仮想戦記としてのIF戦後

 ミリタリー部分については、戦後らしい日本の無力さが出てきている。1945年の無条件降伏後、GHQの管理下に入った旧日本各軍は随時武装解除を進められたのは本編でも言及されている。それ故に初代ゴジラの防衛隊や、シン・ゴジラの自衛隊のような抵抗武力がない、当の米軍は対ソ警戒で動けず、日本でどうにかしろというのが今回のミソでもある。
 もちろん全く存在しないわけではなく、機雷掃海用の掃海艇(特注の木製と備え付け機銃)とか、本土決戦用の試作戦車、自沈処分前の国外留置巡洋艦など、ほんの僅かながら存在する。
 抵抗力としては限られているものの、それでも描写は非常に圧巻だったのが面白かった。ゴジラVS通常兵器はやはりロマンの塊である。

 時間稼ぎという掃海艇()の「新生丸」による遅滞攻撃、爆雷を使い、かつ機銃で誘爆させるところも映えがあったが、その直後の重巡「高雄」の活躍も見逃せない。「これで勝つる!」なんてことはなく、主砲の20センチを浴びても沈むことはなく逆に反撃を加えられることになるが、それでも沈む手前に発した決死の接射、ここは非常に燃えるシーンであった。ただのやられ役ではないと見せつけたものの、直後の海中からの熱戦でやはり塵と化するところは唖然としてしまった。高雄が勝つことはないとメタ的な思考はあったにしても、この最期は絶望である。

海外トレーラーより(GODZILLA OFFICIAL by TOHO)
なすがままに沈む高雄かと思えば、この決死の一撃は熱かった

 そして東京に上陸したゴジラを国会議事堂前で応戦する戦車、見たところ恐らく三式中戦車「チヌ」である。本土決戦用に温存されていたこれらは米軍接収前だったのか、その強化された砲を米軍ではなくゴジラに初めて浴びせることとなる。的もデカくよく効いているようにも見えたがしかし、ゴジラの熱線により議事堂ごと一片も残さず消えてしまう。あっという間の出番ではあったが、ゴジラの恐怖と細やかな抵抗という好みの構図である。

公式トレーラーより(GODZILLA OFFICIAL by TOHO)
中枢を背に決死の抵抗をするのは非常に燃える構図である

 そして最後に敷島が乗る「震電」である。戦時後期わずかに試作されたものだけが残り実戦もなかったものの、その独特な後方プロペラな構造とB29迎撃用の30mm機関砲とフィクション界でも人気のある機体である。野口が「ソレが結構独特なもので…」と言った時に頭に思い浮かんだのがコイツだったので、やっぱりみんな考えることは同じなのだとも。
 そう考えると、ゴジラというパニックのみならずソレに対する戦中遺産の抵抗という別の面でも楽しめる作品でもあった。

・「戦争の残り香」としてのゴジラ

 初代ゴジラが「反原爆・水爆」でゴジラそのものはその化身と言われ、シン・ゴジラは「災害の化身」とよく言われてきた。
このようにゴジラがなにかの化身であるならば、このゴジラは「戦争の象徴」であるかもしれない。戦争そのものよりも、戦争の生み出した恐怖とか闇とか、そして敷島にとっては悪夢の象徴でもあった。
 1945年8月15日の無条件降伏、あるいはポツダム宣言調印の9月2日か、世界史的な意味合いでの終戦は日付に定められているが、個人それぞれにおいてはそうはっきり区切れるものではない。かの有名な「ランボー」の「まだ何も終わっちゃいない」からも、いろいろな形で戦争を引きずっている人はいる。そうして取り憑かれているのが敷島であり典子であり橘であった。

 そしてもう1つは、戦後直後故の敗戦の傷を引きずった人々。
 -1.0版ヤシオリ作戦ならぬ「海神作戦」でゴジラを倒す作戦。だがヤシオリ作戦とは違い、自国の軍や米軍の協力は得られず民間人主導で行うのみ。供与は武装解除された駆逐艦「雪風」含む4隻のみ。コンピューターや高性能なセンサーが有るわけでもない時代に作られた、憶測と推測で重ねた「穴だらけ」の作戦と、陣容がまさに正反対である。
 そんな作戦に参加したのは、多くが民間人、元海軍の人間たちである。「説明会」でこの無茶な作戦を聞いたときは当たり前に「イヤ無理だろ」という言葉も多かったが、それでも志願者は揃った。「俺たちにしかやれないんだからさ」という。
 先の戦争で役割が終わったことは多かれ、その後にして再び存亡の危機が訪れる。ともなれば軍人としての本来の役割である国防につくことが使命ではないのだろうかと。「先の大戦で生き残ったというのに、というのは重々承知している」という旨の発言は、「バトルシップ」の米退役軍人に掛ける言葉にも似てなくもない。彼らもまた、敗戦にて銃後の市民を守れなかったこと、そのことに囚われていたのかもしれない。

 この点、個人的に決定的に思ったのは、ゴジラの銀座襲来時にあった「臨時ニュース」のラジオ。その際に流れる「緊急放送チャイム」である。記憶違いでなければ、いわゆる「太平洋戦争開戦」の際に流れたチャイムだった。「このチャイムは3段階あって開戦時のものが最上級~」というのはやや真偽不明の情報だが、しかしこの「開戦時に流れた」に等しいチャイムは、ある意味これが戦争と同等の自体であると知らせると同時に「まだ先の戦争があっている」と暗に示しているかのように感じる。

 各々の意味合いはあれど、今作のゴジラを倒すという意味合いは、その戦争の怨恨を断ち切るという意味に見えた。

・生きるということ

 全編を強調されてきているのは「生死とその許し」という印象。特攻やゴジラから逃げて生き残って「しまった」敷島。無意味な死から逃れるのは許しても、行動次第では死ななかったかもしれないその死は許さず、澄子も特攻から逃げて生きた敷島を責めた。「生きてちゃいけない」と自責する敷島を唐突な同居人の典子は「生きなきゃいけない」と激励する。
 終盤の海神作戦において、学者の野田も言う「この国は命を粗末にしすぎた」からこそ「この作戦では死者を絶対に出さないものにしたい」と。
 実際のところで考えてみれば、あれだけの不安定な作戦で死者なしというのは途方も無い話ではあるが(実際囮のスピーカー曳航艦はぶん投げられてるし)、ストーリー的にはうまくゴジラの攻撃をかわし、被害少なく完遂した。
 こと敷島の震電による特攻部分が最もだ。放置状態だった震電は橘らの修理を受け復活するが、その時に爆弾を隠匿して搭載した特攻機にもなった。これは敷島の決意の表れでもあったが、同時に橘が脱出装置を用意する。「自分と道連れにしてでもゴジラを終わらせる」ということのように縋って頼み、あの時逃げ出した特攻で精算するように行った改修だが、その時に組み込まれたもの。
 振り返ると元来特攻とは片道切符のもの、これに関しては橘も「命使って突っ込んだところでこの国の勝敗は決まっている」と否定的だった。それ故に、彼は敷島の決意と生き残りたいという願望に応えて脱出装置を用意したのかもしれない

 個人的な話、実は最初の武装説明で脱出装置が有ることになんとなく気づいてたのだが、はじめに解説していた爆弾の安全装置レバーが実は脱出レバーで、こっそり脱出装置を組み込んでドッキリめでたしに持っていくものかと思っていた。だから突入時に引いても飛ばなかったときは「マジか」って思っちゃったり。

・フィクションらしく良い方のエンド

 ゴジラは倒し、自身も生き残った。作戦もかなりの多くが生き残った。戦後の惨禍でこれだけの要素があればかなり良い終わり方だろうが、途中で死んだと思われた典子が最終盤に生きていることが判明する。ここで最後に「敷島の戦争は終わった」と再確認できるのだが、ここまでくると非常に失うものが限られたハッピーエンドに近い話であるように思える。ここはフィクションで、できるだけ希望のある方向に落ち着かせるのも悪くない。
 もっとも、最後の最後で映された黒ずんだ典子の首元。おそらくは重度の放射能汚染でやられたのか、重度の火傷による爛れた皮膚なのか、決して消えぬ傷跡を残していった。そして海中で再生するゴジラも、もしかすると初代ゴジラにつながるような運びを意識したのかもしれない。(それだから-1.0だったのか?)
 どちらにしても、完全なハッピーエンドに持って行かせる気ではないのは確かである。

・「ゴジ泣き」映画か否か

 一部では公式の意図とは反対に無理やりな感動モノとして揶揄される「◯◯泣き」という語だが、個人的には普通に泣く箇所がなんともなしにあった。見た目たしかに「泣ける場面だぞー」みたいなところがなかったわけでもない。ただ、涙もろくなったのかどうかはわからないが、涙出てきたシーンが有るのは確かである。多分意図されたのとは別だが、個人的にはラジオの緊急チャイムでウッとなってしまった。

 確かに昨今の邦画的な要素が詰め込まれてゴジラそのものの暴れは少ない、そんな作品にはなったが、絶望のなかマイナスまで追い込まれた中で繰り広げられる抗いとそのドラマ。
 これが受け入れられるかによって変わるだろうが、個人的には良い映画であったと思う。


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