目覚めないでほしいのか

自宅療養18日目。5:30起床。起きがけにドラマ『Reーリベンジ』第4話を観る。残念ながら面白くなかった。脚本、演出、キャストの不幸なミスマッチ。本来なら山場になるシーンも中途半端にしか伝わらなかった。最近『半沢直樹』を観直していたので、その差が歴然。もちろんテイストが違うので一概には言えないが、役者さんの演技と演出がバチっと噛み合って本当に臨場感が凄かった。錦戸亮の演技がこの後どう変わるのかは楽しみ。このままローテンションを貫くのか、追い詰められて爆発するのか。

『アナイス・ニンの日記』(水声社)を少し読む。生命力が過剰に溢れている。それが今の自分には合わず、本を閉じる。何年か前までは、この本とともに生きていた。芸術を人間をそして女という性を、過剰に、正直に、少しの感情も逃さないという細密さで書ききっている稀有な日記。自分が死んだら棺桶に入れるのはこれだと決めていた特別な本だった。

デスクを前にコーヒーを入れて、この日記を書き進める。自分でも面白くないと思いながら書いている。感情を想起させるできごとをキャッチするセンサーは壊れており、キャッチできた少ない素材を語る語彙が足りなく、それを表現する筆捌きも錆ている。

ベランダから見える景色、マルイと小田急のロゴが宗教的に写る。赤い線の円形といえば日の丸だが、日の丸を見ると戦争を思い出す。この、特定のマークからイメージする感覚は過去の経験により人それぞれだと思うが、どういうことだろう。

何とか布団のシーツを変えた。やはり気持ちいい。心地よさを優先すると人生の満足度が上がる。ただ心地よさというのは破壊力は無い。コツコツ集めて、その機会を増やすのみだ。仕事やその他で起こる大打撃のできごとの前では何も太刀打ちできない。大打撃一回起こると心地よさは10減る感じだろうか。

室内から外を眺める。5月のGW、さらに晴天。そこにシャッフルで流れてきたのはフェイウォンの『夢中人』。軽快でチャーミング。映画のワンシーンも想起して、心が満たされる。ああ世界は美しいという気分にもなる。バカンス。ついで夏木マリ『港のマリー』が流れる。小柄な神が部屋のどこかに現れて、心地よさを延長してくれる。結婚していた時なら、昼から散歩に出かけて港にたどり着き、海の幸と日本酒を堪能していただろうか。二人で酔って成城石井あたりで白ワインとビールを買って千鳥足で帰宅して、体が千切れる勢いで120%の純粋な喜びを表現した飼い犬が二人の周りで何分も、嬉しくて止まらない舞をする。離婚したことを深く後悔することは無いが、そんな日々のささやかな喜びは今でも思い出す。せめて強がりだけでも。外に向かって彼女と犬の幸せを願う。

『自傷的自己愛の精神分析』(斎藤環)を読む。【健康な自己愛こそは親が子に与えうる最上のプレゼント】という文章が飛び込んでくる。泣きそうになる。母親に捨てられ父親は暴力。狭くエアコンも無い部屋の片隅でビクビクしながら兄弟が縮こまって生きてきたのだ。不健康で歪な自己愛しか育たないはずだ。自分が中年になっても、まだ他の中年男性が怖い時がある。とくに怒りっぽい人。憎き父親はもう死んでいてもう恐れることは無いのに。

自分の辛さをユーモアをもって記述するにはどうすればいいのだ?

今日もまた昼過ぎに寝てしまった。3時間ほど。夜にエネルギーを使う用事などないのに、自分の体は何に備えて体力の温存を図ったのか。無意識に死を先延ばししているためだと仮に設定すれば、その先延ばしは意味を持たない。植物の葉が枯れるのを一枚分追加したに過ぎない。

夕方買い物に行く。本が2冊届くのでポストに取りに行くついでに。たかだかポストに本を取りに行くことも簡単にできない不甲斐なさ。前回の感動が記憶にあったので、また肉と赤ワインを決行する。感情の中和。

たった2分で行けるドラッグストアなのに買い物を終えて部屋に戻るだけで汗をかき精神も削られている。外出する時には一秒一秒に全神経を集中しているのが理由だろう。『妹たちへ』(矢川澄子)『俳優のノート』(山崎努)が届く。

酔ったまま本を読み始めるが全く頭に届かずあきらめる。そのまま窓も開けっぱなし、部屋の電気もつけたまま寝てしまう。この前観たTVドラマでは心臓に疾患を抱えた少女が、『眠るのが怖い。目が覚めないかもしれないから。』と言っていた。自分はどうだろうか。心のどこかで目覚めないでほしいと思ってはいないか。

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