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好きを仕事にしたくない

「好きを仕事に」

いつしかこのキャッチコピーは、現代人が働く上での「正義」になってきた気がしてならない。そしてこの「正義」は鋭いカマのように振りかぶり、しばしば自分の肩にぶっ刺さっていることがある。

会社員なら一日8時間(あるいはそれ以上かもしれないが)、仕事をする。一日8時間も時間を費やすことだから、できるだけ苦痛にならないことをやった方が気持ちは楽だし、気分も良いだろう。好きなことを仕事にするために、会社勤めにとらわれない自由な働き方をする人々も随分と増えてきた。

好きなことを仕事にしている人たちは、(裏での苦労は半端じゃないだろうけど)何故かとても楽しそうに見える。だから、自身の体験をもとに「好きを仕事に」を提唱している人も少なくない。そうでなくても、発言や行動から電波のように伝わってくる。「好きを仕事にするのは、こんなに素晴らしいですよ」と。

「好きを仕事に」を叶えた人々を見ると、なんだか気持ちが焦るというか、自分もそうであった方がいいのだろうかと物思いしてしまう時がある。私は、別にみんながみんな「好きを仕事に」できるとは思っていない。どれだけ頑張っても「好きを仕事に」が叶わない人もいるし、敢えて「好きを仕事に」をしない人もいる。人にはそれぞれに事情があるし。

もう随分と前から気付き始めたが、私もたぶん「好きを仕事に」が難しい人間だ。何度も何度も、好きを仕事にしてみたいと考えたことはある。でも、これがどうにもこうにも難しい。私にとって仕事は、あくまでも仕事だ。正直なところ、仕事は大好きじゃない。いまの仕事がどうこう、という意味ではなく、私にとって仕事という概念はどこまでいっても仕事でしかないのだ。映画「ジョーズ」を観てどんなにサメが格好いいと感じても、いざ実際にサメが泳ぐ海に突き落とされたらやっぱり怖いしサメはサメだ、と思うのと一緒だ。うーん、あまり上手に説明できていない気がするけど。

それじゃ、好きなものの話をしよう。私にとって本当に好きなものの存在とは、とても崇高だ。神棚に祀ってあるような崇高さだ。だから、あまり近付き過ぎたくない、近付き過ぎてはならない、と感じる。神棚に祀ってある崇高なものを引っ張り出して、わざわざ「仕事」という動作にぶち込むのは、なんだか気が咎めてしまう。私は、好きなものは好きなものとして最高な状態に留めていたい。どうにもこうにもならない時、最後に救ってくれる存在であってほしい。恐らく「好きなこと」が「嫌いなこと」に変わってしまうのが、ものすごく怖いのだ。

だから私は「好きを仕事に」できなくてもいいかな、と思う。「好きを仕事に」しなくても、好きなことを楽しむ自由は手にできる。しかしだからといって、嫌いなことを仕事するのは健康に良くない。単純に辛い。じゃあ、私は一体どうすればいいのだろうか。

今は、自分には何ができるだろうか・できるようになりたいだろうかと考えている。一応20年以上生きてきたから、なんとなく自分の得手不得手が見えてきた。できることとは別に、やりたいことも、なりたいものもある。書くことは「やりたいこと」だったけど「できること」になったし、音楽は「好きなこと」だからこそ「やりたくないこと」になった。「なりたいもの」は、日々の地道な積み重ねでしかないこともよくわかった。

「好きを仕事に」ができる人は本当に羨ましいし、素敵だ。私もいつか然るべき時が来たら、そういう生き方ができるといいなと思う。ただ、それが向いてない人が「好きを仕事に」の呪縛にかかると、いつしか自分の好きなことまで呪い殺すことになりかねない。私には、呪い殺すほど「好きなこと」に近付ける度胸がまだない。だから、これからどうやって生きていこうかなと探りを入れている途中だ。

30年後、ちゃっかり「好きを仕事に」をしている自分がこれを読んで鼻で笑うかもしれない。そうなれば、それはそれで望むところだ。

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