毎日、何かになれなかった

「あの頃の私は“何者か”になりたかった」
「“何者か”になったって、特別な存在になれるわけではない」
ーーこの手の読み物は、ここ数年で結構、目にしてきたと思う。何者かになることに対して、人々は一喜一憂し、すっかり疲弊した。

私もかつて、何者かになりたかった。肩書きを持っている人は強そうだ。とりわけ、聞いたこともない珍しい肩書きを持っている人は目に留まる。何者かを語れると、なんだか一丁前の人間に見える。何者かであると、それだけで存在感がぐんと増す。

でも、それは幻想だと知った。何者かになるという行為は難しい。難しいというか、無限なのだ。何かになったとしても、その名に見合う身のほどを保ち続けるのは「何者かになる」ことよりうんと骨の折れる業だ。それに、何者かになったとしても、他になりたい何かが際限なく出てくることだってある。そもそも、何者かになったとして、人の根本的な部分が180度がらりと変わるわけではない。惨めな部分や消し去りたい部分ほど、残って去らない。

私はしばらく、何者かになるのを諦めた。何にもなれないし、なったとしても、どうというわけでもないと気づいたのだった。何にもならず、流れに身をまかせて漂うことにした。

そうした時間がしばらく続くと、おかしなもので、やっぱり自分で自分を運転したくなる瞬間が来る。名のある何者かになりたいとは思わない。しかしながら、何かにはなろうとする。何かになるために何かをやっては、没頭し、オーバーヒートし、飽きて、終わり。それの繰り返しで、結局は何にもなれないのだが。

でも、そうやっている足踏みしているうちにいつか、何かを見つけるんだろうか。少なくとも、何かになりたいと思うことは悪いことではない。何かになれなくても、ちょっとした夢くらいなら持つのも悪くない。明日に歩みを進めるための、わずかな活力くらいにはなる。

来る日も来る日も、そこにいるのは自分自身だ。毎日、何かになれなかった。何かになれなかったが、そうやってもがく時間がたまにあるのもまあ、悪いものではない。下手な運転だが案外、徐行くらいはしているのかもしれない。

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