忘れられない子どもたち③~福島の子どもたちとたまごのダンス~

震災後、踊っているのに踊れなくなった、という話を書きました

踊り手なのに、「だからこそ踊る」も「それでも踊る」も心からはできていなくて、そのことに小さく傷つきながらも、じゃあ今、自分は何だったら本心で動けるのか・・・と考えた時に出た答えは、踊りとかそういうことは一度置いておいて、普通にボランティアに行くこと、でした

なんというか、なんだかよくわからない感覚なのですが・・・津波後の街の様子を見ていたら、「これ、自分のことだ。自分のことだから自分で片づけに行かないといけない」みたいな気がしてきたのですよね・・・自分の中でも地震と津波が起こっていて、自分の中でも瓦礫が散乱している感じだったのかな。だから動機としては人の役に立ちたい!というよりはどちらかというと自分の為だったかもしれなくて、自分の中のそれを少しでも整えたくて、ボランティアに行ったのかもしれない・・・と今になると思ったりしています。(ただ実際に現場に入るとそこには現実が広がっているので、また意識は変わっていきました)

とにかくボランティアに行こう、と決めたらすっと動けて、2011年、2012年と岩手にボランティアに行きました。ボランティアには本当にいろいろな人が来ていて、使命感をもってバリバリ動いている人もいれば、なにかどこかしら傷ついていてここに来たんだろうな、という人もけっこういたような気がします

そして2013年

ずっと気になっていた、福島の子どもたちのキャンプの引率ボランティアに初めていきました

その少し前から自分の生活面や仕事面を少しずつ見直し始めていて、2012年から知的障害のある子どもたちの施設で仕事をするようになっていたのもあり、福島の子どもたちのキャンプの中でも知的・発達障害の子どもたちのグループを選んで参加しました

このキャンプでの経験はもうここではとても書ききれないくらい濃くて充実していて、子どもたちは本当にみんなすごくかわいくて、スタッフの大人も変な人ばかりで、いろいろなことがあったけれど、日々が本当に輝いていた

子どもたちにも大人たちにもたくさんのものをもらったと思う

その中でも帰る日の前日に行われた「お楽しみ会」はおもしろかったなあ

子どもたちとスタッフで何人かずつに分かれて、自分たちの得意なことだったり、好きなことだったりを発表していく、という会だったのだけれど、その準備の時にボランティアのボスから「子どもたちにダンス教えてあげたら?」と声をかけられました

私はこのキャンプにはダンサーとして参加したわけではなかったから、ダンスでなにか、とかその時は全く考えていなかったし、音源の類も全く持ってきていなかったし、「え?え?え?・・・できるかな・・・」と内心戸惑いながらも、ダンスやってみたい子!と募ってみたら3人の女の子たちが集まって来てくれました

「どんなダンスやりたい?」

「たまご!!!」

「・・・たまご?!?!?!・・・たまごのダンス?!」

「うん、たまご!」

「・・・わかった、たまごのダンスやろう!」

というわけで、とにかく創作や練習時間はあまりなかったけれど、たまごのダンスを3人娘たちと一緒につくることにしました

Mちゃんは知的障害のある女の子ではじめはダンスにそれほど積極的ではなかったのにやっているうちに「練習しよう!練習しよう!舞台でも練習しよう!」と誰よりも積極的に本当に楽しそうに踊っていたし

震災でPTSDを発症したというMIちゃんはそんなことを忘れさせるくらいイキイキとリーダーシップを発揮して「次はこうしよう」「こんなのやってみたい」など、いろいろなアイディアをたくさん出してくれた

知的障害でとてもおとなしくてキャンプ中もほとんど自分の意志などを示していなかったAちゃんが、私と他の子がくるくるまわるダンスをやっていたら「・・・私もやって・・・!」といってきてくれた時は嬉しかったなあ

ゲラゲラ笑いながら4人で練習している時間が本当に楽しかった

私の中に固まっていたなにかがどんどん溶けていくような気がした

練習時間もあまりなかったし、本番は照れて照れて照れまくってみんな私の陰に隠れようとするし、構成も意味不明な不思議ダンスだったし、見ていた人たちもきっと頭の中「???」だったと思うけれど、照れながらも笑顔な3人娘たちがすごくかわいかった

他の子たちも自分の得意なこと、好きなことをイキイキとみんなの前で発表していて本当に輝いていたなあ

でもキラキラ輝いていた分だけすごく切なかった。こんなにかわいくてイキイキと生きている子たちは明日、福島のそれぞれの場所に帰っていく

福島第一原発の問題はまだまだ終わったわけではないが、当時はもっともっと放射線量の情報が日々出ているような状況で、このキャンプにも福島県の中でも放射線量に不安のある土地から参加している子たちもたくさんいた

それなのに自分たちは東京に帰るのだ・・・

別れの時、大人も子どもも名残惜しくて仕方なかった。お迎えの親御さん方が来ているのに、みんななかなか帰ろうとしなかった

それでも時は来てそれぞれの場所に帰っていく


私は東京に帰ってきた

でもその時気づいたのだ、踊ることを肯定できるようになっていることに

踊ろう

踊っていいんだ

あの子たちがいつの間にか伝えてくれていた

それに踊っていたら、もしかしたらまたいつかあの子たちに会えるかもしれない


そして、自分の中がそうやって変わったとき、物事はまた動き出すのだ、ということを知りました

その話はまた次に書こうと思います

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