見出し画像

「敗者の古代史  森浩一」から    垂仁天皇の妃 1 狭穂姫  土方水月

  

「敗者の古代史 森浩一」から  土方水月

森浩一氏は2013年6月逝去。ご冥福を祈る。そして感謝する。

この本は、多分最も正しい歴史観で書かれている。何物にも影響されず。偏見もなく。勝者にも敗者にさえも媚びず。膨大な検証と考察から、そして自身の推論を挟まず、確実に科学的な考察のみを述べている。素晴らしい著書を残してくれたことを。


1 狭穂姫と狭穂彦

「兄と夫といずれか愛しき」。

同母兄の狭穂彦に問われた狭穂姫は「兄ぞ愛しき」と答えた。

狭穂姫はイクメイリ彦(垂仁天皇)の皇后でありながら、夫と戦う兄にそう答え、愛児を夫に託し、兄とともに落命する。

狭穂姫と狭穂彦は、開化天皇の子であるヒコイマス王の子。

ヒコイマス王は本来なら開化天皇の次代の天皇になったかもしれない人。天皇にはならなかったが力があった。世は崇神・垂仁天皇の時代に変わったが、皇后は開化・ヒコイマス王の子からでなければならなかった。

そして狭穂姫が皇后に。

ヒコイマス王は、開化天皇の子で、母は丸邇(わに)氏の出自。本来なら「日子坐命」とかかれるところを「日子坐王」と書かれる。そして「丹波道主王」の父でもある。「開化天皇」の後は、本来ならば「日子坐天皇」、「丹波道主天皇」であったかもしれない。彼らは、北部奈良盆地から山城と丹後を含む丹波に勢力を持っていた。

一方、ミマキイリ彦(崇神天皇)は「イクメイリ彦」と異母兄弟の「豊城命」のどちらが「次期天皇」にふさわしいかを判断するため夢占いした。「イクメイリ彦」の母はミマキ姫(コノハナサクヤヒメ)。「豊城命(トヨキイリ彦)」の母は豊玉姫。

そして、「イクメイリ彦」が垂仁天皇に。「トヨキイリ彦」は群馬県毛野君の始祖に。

狭穂姫は兄の狭穂彦の籠る稲城で「イクメイリ彦」の子「本牟智和気」を産む。稲城の外に「本牟智和気」を置いてイクメイリ彦に言う。「もしこのこを天皇の御子と思うのであれば治め賜うべし」と。

それに対して、イクメイリ彦は、「あなたの兄は恨むけれどあなたを愛する気持ちは抑えられない」と答え、救出を試みたがかなわなかった。

ここまでは、記紀の話。

このように政権交代は起こり、「イクメイリ彦」は「秀吉」のようで、「狭穂姫」は「お市の方」のようである。

記紀は同じ政権内の話としているが、ここのところがまさに「崇神・垂仁・豊玉姫」の東征の結果であった。そして、「トヨキイリ彦」の同母兄弟「トヨキイリ姫」は「台与」に。

そしてさらに、「トヨキイリ彦」が毛野君になったのは、東国に派遣されたのではなく、「イクメイリ彦」が垂仁天皇となり、役割を終えた「トヨキイリ彦」は東国に追われたのであった。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?