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卑弥呼の東征 2-1  土方水月

宇佐の神

 ウサ族は北からやって来た出雲族に追われ、元いた古志・山城から九州に南下した。豊国の宇佐に移り住んだという。出雲に天下ったスサノヲはアメノホアカリであった。しかしその後、九州にも天下った。ニギハヤヒと呼ばれた。そのずっと後の二世紀になって、九州の日向の都万にミマキイリヒコイニエが現れた。彼はニギハヤヒの後を名乗った。このニギハヤヒはニニギと呼ばれた。ニニギはニギハヤヒの弟となった。三世紀になってその子イクメイリヒコイサチは、イニエつまり崇神天皇の后であった豊国の豊玉姫とともにに東征を始めた。

"神武東征”とは

 初代大王は神武天皇であった。神武天皇は天孫族ではあったが、出雲族でもあった。天孫族と出雲族の融合の証が神武天皇であり、三種の神器であった。出雲に天下ったアメノホアカリは、出雲の姫であったヤチホコの娘である高照姫と夫婦となったといわれる。古事記ではスセリヒメであった。高照姫はヤチホコと宗像三女神のひとりタギツヒメとの娘であった。

 「神武東征」は三回あったとも言える。第ゼロ次神武東征ともいえるアメノムラクモ自身の邪馬臺入りの後にあった最初の東征はウマシマジによってであった。

 神武天皇と後に呼ばれるアメノムラクモはアメノホアカリと孝照姫の孫であった。アメノホアカリは出雲を離れたため、その子である五十猛イソタケは出雲族となった。そしてその子であるアメノムラクモも出雲族として育った。イソタケが“東征”し、丹後に移った。丹後ではカゴヤマと呼ばれた。カゴヤマは歌語山と書くが、篭山とも籠山とも書く。ここには「籠神社このじんじゃ」がある。“籠”を“かご”とは読ませない。

 イソタケ・カゴヤマのこはアメノムラクモであった。アメノホアカリは出雲に天下り、古事記ではスサノヲとなった。彼は古志のヤマタノオロチを退治した。そうして、ヤマタノオロチの尾から“アメノムラクモノツルギ”が出てくる。アメノホアカリの孫の名を持つ剣が出てきたことにした。

アメノムラクモ

 アメノムラクモは丹後から南下し、畿内に王国を造った。「邪馬臺やまと」と呼ばれるところであった。後に初代大王とされたが、畿内の王であり、出雲の王でもなかった。アメノムラクモはすでに出雲族となっていた。妻や子は出雲族として過ごした。支えたのは出雲族と妻の摂津尾張家であった。このとき畿内にいた出雲族は、出雲の富家からの分家の登美家と磯城家であった。アメノムラクモの妻は摂津三島の尾張家の娘であった。彼らがアメノムラクモを支えた。彼の子は後に第二代綏靖天皇と呼ばれるヒコヤイミミであった。兄のカムヤイミミは後には“藤原”と呼ばれる中臣氏となった。

姫と媛と比売と比弥

 第三代安寧天皇と第四代懿徳天皇の後、孝昭・孝安・孝霊・孝元天皇の時代に"倭国大乱”となる。"孝” の字がつく時代は戦乱の世であったといわれる。この時代がニギハヤヒの子孫とされるウマシマジによる二回目の"東征”の時代であった。ウマシマジはその子であったイツセやイナイやミケイリノやサノとともに東征したといわれるが、実際には、イナイはいないし、ミケイリノとサノも九州に残り、ウマシマジとイツセの二人しかいなかったともいわれる。イツセは孝元天皇の子であった大彦に敗れ、今の和歌山に眠るといわれる。イナイは新羅の王となり、ミケイリノはエジプトに、サノは九州に残っていたともいわれ、ギザのピラミッドを造ったのはミケイリノであるともいわれる。
 そして、ウマシマジは太田タネコの協力もあり、「邪馬臺やまと」に戦わずしては入れたといわれる。そうして、孝霊天皇は吉備に移り、その子であった孝元天皇の時代の王家はウマシマジの支配下にあったともいわれる。
 しかし、ウマシマジは統治王ではあったが、権威は祭祀王にあった。祭祀王は〝卑弥呼”とも呼ばれたヤマトトトヒモモソヒメであった。彼女と大彦は孝元天皇の子であった。大彦も伊賀から古志・蝦夷へと北に移った。

 孝元天皇とヤマトトトヒモモソヒメは残ったが、孝元天皇に実権はなく、ウマシマジが統治王であり、祭祀王としてのヤマトトトヒモモソヒメが権威者であった。ヤマトトトヒモモソヒメは〝卑弥呼”とも呼ばれたが、墓誌には倭母母曾比賣と書かれる。彼女は第八代孝元天皇の娘であり、大彦の姉でもあった。まだ物部や大倭(おおわ)が東征する前の畿内の邪馬臺(やまと)にいた。出雲族と天孫族とが融合した神武天皇の子孫であったが、出雲の太陽神を崇拝していた。太陽神である天照大御神を崇拝していた。その天照大御神を祀る巫女としての祭祀王であったといわれる。魏志倭人伝に“女王”と書かれたのが正しければ、ヤマトモモソヒメが祭祀王で、統治王が孝元天皇であったことになる。

 そしてその後、〝壹与・臺与”と呼ばれるトヨスキイリヒメが後を継いだといわれる。しかし、本当の卑弥呼はもう一人いた。九州の宇佐の豊玉姫であった。本当の〝神武東征”はもっと後であった。それは二回目の〝神武東征”であった。それは崇神・垂仁天皇による東征であった。臺与は“豊”であり、"豊”は豊玉姫の“豊”でもあり、豊鉏入姫の“豊”でもあった。


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