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【日本国記】 限りなく真実に近いアナザーストーリー 7 オオドシとカグヤマ       土方水月


 
 

 オオドシノとアマノカグヤマ       ひじかたすいげつ

 アマノカグヤマとは漢字で書けば天香具山か天香久山となるが、もとはアマノカゴヤマであり、天香山であり天歌語山であった。そして、天火グ山、つまり天火の山であり、海火の山であった。火具槌であり、火雷であった。

 香具山は大和三山の一つ。奈良県橿原市にある畝傍山、耳成山、香具山をそう呼ぶ。万葉集にはつぎのように読まれた。

 「春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり アメノカグヤマ」と詠んだのは、持統天皇と後に呼ばれる大海人皇子の妻であった宇野讃良である。

 大海人皇子は天智天皇(中大兄皇子)の弟とされ、後に天武天皇と呼ばれる。宇野讃良は壬申の乱の前、父である天智天皇が夫である大海人皇子をなきものにしようとしていた時、その情報を知った宇野讃良は夫である大海人皇子にそのことを伝えた。それによって難を逃れた大海人皇子は天智天皇の死後、壬申の乱に勝ち、天皇となった。宇野讃良は父である天智天皇よりも夫である大海人皇子を選んだのであった。

 「白妙の衣」と詠んだのは衣を干しているようにも見える「白いササユり」であった。ヤマトのササユリには特別な意味がある。大神神社のある三輪山には幸神社という社がある。そこにはササユリが咲く。ササユリが咲く幸神社はサイノカミを祀る。サイノカミとは幸の神であり、出雲のサイノカミである。

 出雲のサイノカミは大山にもたとえられるクナトノカミと対になる三瓶山にたとえられる。三瓶山の本当の名は幸姫山サイヒメヤマである。サイヒメヤマが“さんべやま”に変わったのは国譲りの後であったはず。出雲のたくさんの銅鐸と同剣は荒神谷に埋められ、幸姫山は三瓶山に変えられたのであった。

 国譲りはヤマトでも行われた。三輪山に祀られる神は出雲の出雲のオオドシである。大物主とも呼ばれる。出雲のオオドシはヤマトの登美のナガスネヒコに勝利しヤマトをも支配するようになった。出雲で行われた国譲りはヤマトでも行われた。

 いったいオオドシはどこからきたのか?初めに出雲にやって来た。出雲に来たオオドシはホアカリと呼ばれた。出雲の王大名持ヤチホコの娘タカテルヒメを娶った。タカテルヒメは古事記ではスセリヒメと呼ばれる。そしてオオドシは大国主と呼ばれる。そして、大国主にとって義理の父となったスセリヒメの父ヤチホコはスサノヲと呼ばれた。しかしほんとうのスサノヲは大国主であった。

 つまりここでも名を交換している。本当の大国主は出雲の王大名持として慕われたヤチホコであった。そこにやって来たオオドシは、王女タカテルヒメを娶った。それを良しとしなかったヤチホコは古事記ではスサノヲとして描かれた。ヤチホコは荒ぶる神ではなく、娘の結婚に反対する、娘を奪われたただの父であった。本当の荒ぶる神はオオドシであり、彼は出雲の王の娘を娶ることによって出雲の王位を乗っ取ったのであった。

 スサノヲであったオオドシはヤチホコ大国主の神門臣家とヤエナミツミ事代主の富臣家の出雲を国譲りさせたのであった。そうして出雲を支配した。そしてその後、さらにヤマトにも進出した。当時、ヤマトは出雲富臣家の分家であった登美家が支配していた。将軍であった弟の登美のナガスネヒコと王であった兄の登美のアビヒコが統治していた。オオドシは出雲からヤマトまでを支配し、そうして“アマテラス”と呼ばれた。アマテラスとはヤマトの王の称号である。

 出雲の王の称号は大名持であった。副王の称号は少彦名であった。国譲りのときの大名持が大国主とも呼ばれたヤチホコであり、そのときの少彦名が事代主とも呼ばれたヤエナミツミであった。そしてその分家である登美家がヤマトを支配していた。ヤマトの王はアマテラスと呼ばれていた。

 それまでの出雲は中国地方のみならず四国と九州北部から近畿地方までをも統治していた。神在月には各地の神が出雲に参集した。そして各地の問題を裁定した。その裁定は“言向ことむけ”と呼ばれた。それは各族の婚姻にも及んだ。そのため今でも出雲の神は縁結びの神とも呼ばれる。

 その出雲の姫神サイノカミを祀る幸(サイ)神社に咲くササユりからササユリを“サイ”と呼ぶようになった。サイ-サイノカミとなったササユリは出雲の幸姫サイヒメとなった。サイヒメを祀る幸神社はいまは狭井神社とその名を換えられている。

 宇野讃良は出雲の姫神であるサイノカミに自分をなぞらえて、香具山のササユりを詠んだのである。香具山は歌語山(火の山)つまり火雷神でもあったオオドシの子イソタケ(イソタケル)でもあり、イソタケが三輪山に祀ったその父オオドシは天照国照彦火明櫛玉饒速日とも大物主とも呼ばれる。

 そして、宇野讃良は自分を出雲の姫サイヒメになぞらえ、倭の天智天皇の娘であったにもかかわらず、王位を奪われた敵方の大海人皇子こと天武天皇の后となり、新しい国「日本国」を建て、孫の文武天皇に継いだのであった。

 持統天皇は今は明日香村の自分が天武天皇のために造った檜隈大内陵に天武天皇と共に眠っている。天武天皇が信奉した道教の八角墳にして。


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