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【日本国記】 第二章 12 長岡京遷都・日本とは世界で最も特殊な国である ―古くて新しい―   土方水月 

11 長岡京遷都 1   

 日本では天皇の地位が最も高いはずであるから本来御所の大極殿は最も権威の高い建築物でなければならないはず。ところが奈良時代、実際にはそれより高い建築物があった。口ずさみと呼ばれる記録に“雲太和二京三”とある。“雲太”は”出雲太郎“のことで出雲の杵築大社(出雲大社)が最も高かった。98mあったといわれる。二番目が奈良の東大寺であった。”和二”つまり“大和次郎”である。“京三”は“京都三郎”であり、京都の大極殿が三番目ということを表す。その大極殿の16.7mであったといわれる。

 そして、奈良時代の平城京の大極殿の高さは27mとも25mであったともいわれる。これには基壇の高さも含まれ、正確には23.5mともいわれる。もとは平城京で最も高い建物ではあったが、758年には東大寺が建てられ、大仏殿の高さは46.4mであったという。しかし、今の大仏殿は三代目であり、当初の大きさはもう一回り大きかったのではないかともいわれる。また平城京遷都当時の大極殿も後の大極殿よりも大きかったといわれる。

 平城京の当初の大極殿は新益京(藤原京)の大極殿を移築したといわれ、新益京は京としての大きさ自体もまた大極殿の大きさも後の平城京や平安京のそれらよりも大きかったといわれる。

 いずれにしても平城京では大極殿より東大寺大仏殿のほうが高く、天皇の建物よりも仏の建物のほうが高いということで仏僧の立場が強くなり、その結果起こった道鏡事件を発端に寺のない地域への遷都が考えられたという。それにより長岡京への遷都が決定された。長岡京はその後の平安京の場合と同様に和気清麻呂が山城守であったためにそのようになったといわれる。

つづく

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