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名言ノート

ノートにやたら名言と言われるものを集めていた時期がある。

ドラマや映画、小説、偉人の言葉など、琴線に触れれば、せこせことノートにしたためていた。

日記は、長く続かなかったが、この名言集めはしばらく続いた。

6年間くらいで、いつの間にか10冊ほどたまった。どれだけ、名言に飢えていたのだろう。

集めたからといって、自分が名言を吐けるようになるわけでもない。ただ、お守りのような感覚で、そのノートがあるだけで落ち着いた気分になった。

そのノートは、基本クローゼットの奥に眠っているのだが、たまに見返すときがある。何冊かパラパラめくると、自分を鼓舞するような言葉や、ダメな自分を受け入れてくれる言葉などがずらりと並んでいる。

ノートのなかの名言は、まんまそのときの自分を映す鏡だ。

この名言を書き写したときは、学校行きたくなかった時期だなとか、この名言は、自分のこと嫌いでたまらなかった時期だなとか(基本ネガティブ)、鮮明にその当時のことが思い出されていたたまれなくなる。

もちろん数々の言葉に支えられもしたが、それも含めて右往左往してきた自身の歴史がそこにギュッとつまっている。

たまに名言に感化されたのか、自分の言葉が合間合間に挟まっていて、これが顔から火が出るほど恥ずかしい。坂本龍馬とイチローの言葉の間に、自分のつたない言葉がある。なんて、おこがましいのだろう。

墓場まで持って行かなくては、ノートを読みかえすたびに、ぼくは固く心に誓った。

人に見られたら、大変だ。たぶん泡吹いて、卒倒するだろう。

歴史上の人物や文豪などの手紙がまれに発見され、当たり前のように一般展示されることがあるが、あれには同情する。

手紙や日記には、その人のすべてがさらけ出されている。青臭いこと言っていたり、当人同士でしかわからないノリみたいなものが白日の下にさらされる悲しさったらない。

ましてやラブレターが展示された日には、その方の心情を思うと、胸が張り裂けそうである。その人が有名であれば、ラブレターも人柄を示す重要な歴史的資料なのだ。

完璧な証拠隠滅のためには、やはり燃えるごみの日に捨てるしかない。燃やさないと、誰かに見られる可能性を常にはらんでいることになる。

将来、もし結婚して子どもや孫などに見られたら、もう恥ずかしくて、せつなくて、たまらない。

そんな状況を避けるためにも、捨てなくてはと、毎年強く思うのだが、このノートたちは何年もゴミ箱行きを免れている。

捨てようとするが、どうも捨てられない。

捨てられないものには、おおきくわけてふたつの理由があると思う。「いつか使うかもしれないもの」と「思い出がつまっているもの」だ。

特に「思い出のつまっているもの」は、捨てるのにかなりの思い切りを必要とする。

思い出が染みついているものは、たとえ物として価値がなくても、なかなか捨てることはできない。

名言のノートは、たぶんそれだ。

なので、たぶんこの名言ノートは、これからもずっとクローゼットの奥に陣取り続けることだろう。でも、何とか見られないようにしたい。

そのための万全の態勢を考えてみたのだが、一番の理想は、その名言ノートを自分以外の誰かがめくると、「このノートは10秒後に自動的に破壊されます」という機械の音声が流れ、プシュンとノートが消滅する、スパイ映画とかでよく見るあれである。

#エッセイ #コラム #日記


Twitter:@hijikatakata21

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