サッカーからの自立 ①意味と価値

なんのためにサッカーをしているか

これがなければサッカーが出来ないなと感じているわけだがそれを自分の中で成立させるためにサブタイトルの2つは意識から外れることがあってはならないと感じているもの。


私たちにとってサッカーが
楽しいとか、勝つと嬉しいとか
それを通して成長できる、とか自分をサッカーに留まらせる何かが必ずあるはず。
これが私たちのサッカーにおける「意味」にあたる
それだけでもサッカーは成立する、
ただしそれはあくまで個人の枠を超えない。

子供であればそれでよかった
難しいこともなく、ポジティブな要素の理由だけでサッカーを始めて、それさえあれば続けてこられた。
立ち返るべき原点として、絶対に必要なものであるし、そうでもなければ、他にも代替可能なものになり虚しくなる。

個人の中の「意味」を持って成立してきたサッカーをここではあえて名前をつけて

『子供のサッカー』

と呼びたい
サッカー選手の根本的な動機づけとかなんかこう、パッション的な部分?コアの部分?
なんとかわかってほしい、サッカーをする原動力になる部分だ。

自分のサッカーの「意味」をわかった上で
「価値」を共存させる。
そうしてサッカーから自立し、

大人のサッカー

へとアップデートしたい。

「意味」をもらうだけの状態から
「価値」を与えられる状態になりたいということだ。

では何を持って「価値」があると言えるのか。

私は、「価値」とは自分以外の領域にとっての「意味」だと定義している。外から「意味」があって初めてニーズが生まれる。
つまり、「価値」は外が決めるものなのだ。


駆け出しの画家が
これは良いのが描けたぞ(ドヤァ)
と感じた作品も、値を付けるのは自分ではない。
ピカソの絵はあれの「意味」が分かる誰かが値をつけている。


サッカー楽しい!という「意味」が自分にあっても、それがチームにとって「意味」がなければ「価値」があるとは言えない。
そうすると試合に出られないただの自己満足のためのサッカーに留まってしまう。



それは主語がチームになっても同じだ。

みんなで楽しくサッカーを出来ていたらそれは「意味」のあることだろうと思う。

しかしそれが勝利による強いチームとか、楽しくサッカーをする環境として良いチームというようななんらかの形での外界にとっての「意味」がついて初めて「価値」があると言える。


そして、主題にしている自立とは、主体をサッカーそのものに置き換えてみると見えてきた

サッカーの世界と触れ合っている人はサッカーが好きでサッカーは素晴らしいものだと知っているはずだ。

それがきっと私たちにとってのサッカーの持つ「意味」だ。

しかしサッカーは、外の領域にとって「意味」があるのだろうか、つまりサッカーの「価値」とはどのぐらいのものか。

私はそれが十分とは考えられない。
それでいいとは思えない。

サッカーが好きならばなおのことである。


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hh1hijiri

立教大学体育会サッカー部/ 21歳/ 小さい頃から続けてきたサッカーについて考えを深堀りしたものを頭の整理兼ねて載せています。 ※発信内容は個人の見解です。 所属とは全く関係はありません。 twitter→@hiji1113
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