サッカーからの自立 ②感動という尺度

前項では、サッカーに対して価値を与えられるようになってサッカーからの自立を図りたいという旨の文章となりました。

ではどのようにして価値を与えられるのでしょうか

価値とはつまり外からの意味と私は定義しているわけですが、
(前項を参照)
https://note.mu/hijiri_official/n/n3105d631a0de

外にとって意味のあるものになるために目を向けなくてはならないポイントは「感情」にあると思われます。


なぜならば、私たちサッカー人が日々追い求めているサッカー技術、能力は、世界共通の価値を測る尺度ではないからです。

要するに、私たちが意味があると思ってるサッカーが上手いという状態はサッカーを知らない人にしてみればなんの意味もないわけです。

地味だけど上手い、目立たないけど頭がいい
そんなプレーは試合の中で何度も見られ、私たちはそれらに感嘆することもあります。

しかしそれらはサッカーを深く知らなければ、何が凄いのかはわからないし、例えばひとつの勝利の意味も当事者とそのほかでは意味の感じ方が違うわけです。
ただ存在するだけでは、ものすごいプレーも世界的に見れば価値が高いとは言えないかもしれない。

サッカーの世界にのめり込んでいる人達は世界の何割にあたるのでしょうか。
サッカー人とそれ以外とに分類すると、それ以外が圧倒的に多いでしょう。
その大多数にとって意味がなければ、私たちの信じるサッカーの価値は虚像であり、ただの自己満足に終始してしまうわけです。

だから感情に目をむけるのです。

地球上では70億もの人生が営まれており、それぞれ生きる目的は違えど、抽象度を上げれば人生の目的は幸せになることだと思います。
ここが唯一の共通項となり、
幸福度を測るために自分の感情は無視出来ないものです。

(赤の部分が共通項であり、そこを拡大していくことが重要)

サッカーも例外ではないはずです。

私の考えるサッカーの価値は
どれだけ人を幸福にできるか、です
そのために私は感情に目を向けます。

だから私にとってサッカーとは価値の高いものです
サッカーによって私の人生は豊かになっているからです。喜びと悲しみも悔しさも情けなさも含めてです。

サッカーは間違いなく私たちの人生を豊かにしてくれたと言えるでしょう。
そうでなければ続けていません、
続ける選択をしているのはいつでも自分です。

また価値の定義に戻りますが、
自分のサッカーに価値を持たせるならば、他者にとって自分のサッカーが
人生を豊かにしてくれるもの
という風になる必要があります。


自分のプレーで誰かが勇気を得たり夢を与えたり
勝利することで誰かが喜んだりと言った風に

誰かの感情を動かすで、自分のサッカーはその人の幸福度に関与できる価値のあるものとなるのです。

自動的に逆に負けたら悲しむ、悪いプレーに怒るといったようなものも生まれます。

それが応援される、ということなのかも知れません

とすると、私たちは応援される必要があります

であれば、よく言われるサッカー上手いだけではダメだという根拠も見えてくるような気がします。


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hh1hijiri

立教大学体育会サッカー部/ 21歳/ 小さい頃から続けてきたサッカーについて考えを深堀りしたものを頭の整理兼ねて載せています。 ※発信内容は個人の見解です。 所属とは全く関係はありません。 twitter→@hiji1113
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