乳房に、娘が死んだことをそろそろ教えてやらなければいけないと思った。

母乳バンクに送るとはいえ、一日4時間ごとに搾乳するのにはそろそろ疲れてきた。

4時間ごとに搾乳とはいえ、睡眠は6時間くらいとっているが、
その時に母乳パッドがうまく当たっていなくて、ブラジャーが母乳でぐっしょりになって目覚めるのとか、
友だちと会っていても、途中で搾乳のため30分くらい席を外さなければならないのとか、
毎日搾乳を中心に生活を組み立てなければいけないのとかにも疲れたし、
何より、搾乳しているときはやっぱり娘のことを考える。

手術の前日、
死ぬ気で絞り出した初乳中の初乳を、NICUに持っていき、
本当は絶飲食だが、初乳だったら少しあげてもいいと言われていた娘の口に、ほんの10mlくらいだったか…垂らしてあげられたこと。
あの日は生後2日目で、今思えば、意識がある娘に会えたのはあれが最後だった。
娘の口に、何度かに分けて母乳が吸い込まれていったこと、
恍惚とした娘の表情…
なぜか私は、あの時のことを夫には話していない。
話さないでおこう。

あとは、大みそかの日。
娘が生まれて2週間。手術を受けた娘は、もう10日も、鎮静の眠りが続いていた。手術前には、一週間くらいという話を聞いていたように思ったのに。
私は焦っていた。赤ちゃんと引き離れた母親は、2週間程度で母乳の分泌量が減ると聞いていた。
実際、エースが少し不調だった。(私の左の乳房は、『エース』という名前である)
白斑が浮き、絞ると痛む。必死で絞り出しても40mlに満たない。ほんの少し絞り出しただけで張りはすぐに消えて、くにゃくにゃに萎れてしまう。
このままでは、もたない。娘が戻ってくるまでに枯れてしまう。娘に直接母乳をあげる日まで、絶対に保たせたかったのに。
私は死ぬ気で胸を搾りまくり、搾乳の時間を考えずに私を外出に連れまわそうとする夫と大喧嘩をした。
そして、その次の日に娘は心停止して、エクモにつながれた。
今思えば、「片方の乳が、1回あたり30mlしか出ない」なんて悩みであれだけ取り乱せたあの日は、ばかみたいだった。

そして、娘が死ぬ日、
娘は体がむくみにむくみきって赤黒く、まるで阿修羅のような苦しみに満ちた顔をしているように見えた。
鼻や、かたく閉じられた目からにじみでてくるわずかな水を拭ったり、むくんでパンパンになった腕をさすってやることだけが私たちにしてやれることだった。
看護師のみんなは、娘が死ぬとわかっていたから、私たちに「娘にしてやりたいことはないか」と何度も聞いてくれた。
私たちは、「声は聞こえているから」と娘に絵本を読んでやった。
そして、娘の前で夫婦のくだらない会話をして、けらけら笑ったりした……娘がもし家に帰ってきていたら、何回も聞くことになったであろう、私たち夫婦の楽しそうな話声を覚えていてほしかった。
そして、私は、娘に母乳を飲んでほしかった。
もちろん、80mlとか100mlとか飲んでもらうのは無理なのはわかっていたけれど、口元に少し垂らしてやるのはOKだということだったので、スポンジに含ませて、口元に置いてあげたりした。
もちろん、娘が飲むことはなかった。
なかったのだけど…まあ、飲んでくれるはずはないだろうと、思っていたのだけど…
何時くらいだったか。
たぶん、昼ごろだったんじゃないか。
夫が、「口をむにゅむにゅしている!」と声を上げた。
意識のないはずの娘の口には、人工呼吸のためチューブが挿管されていたので、口を完全に閉じることはできず、舌が見えていた。
その舌が、わずかに動いたようにみえたのだった。
娘は意識があったころ、ずっと口寂しくて、哺乳瓶の口をずっとくわえさせられていた。
今思えば乳を探していたんだと思う。
私には、その、舌のわずかな動きは、意識があったころのその動きに見えたのだ。
「待って! 今、おっぱいをあげる! ちょっと待って!」
私は迷わずに乳をむきだしにし…(その場は個室で、私と夫しかいなかった)ボトルに乳をほんの少し絞り出した。
そして、スポンジに含ませて、口元に垂らしてやった。
さっきやったときは、娘の舌の上に乳を垂らしても、それは舌の上をすべってくちびるの下にこぼれてゆくだけだった。
でも、その時は、私が「光ちゃん! お口、むにゅむにゅして!」と言った声に合わせて(そんなふうに見えた)娘が舌を動かし…ほんの、ほんの一滴の母乳を、口の中に引き込んでいるように見えたのだ。

だから、娘が生きている間に飲んでくれた母乳は、
手術の前日に飲んでくれたほんの10mlと、
死ぬ日に口の中に入れてくれたほんの数滴なのだ。
それだけ。

あの最後の日は、娘は奇跡的なことをたくさん私たちに見せてくれたと思う。
私たちの言葉が聞こえているんだ、完全にわかっているんだ、と思う瞬間がたくさんあった。

あとは……
娘の葬式の前の日。
娘の旅路のために、お弁当を作ってあげたこと。
シリンジに入った冷凍初乳を溶かし、ガーゼハンカチに浸した。
ガーゼハンカチは、娘が生まれる前に、夫が娘のために買ってきた旅行のおみやげだ。
初乳をたっぷり含んだハンカチを、私たちは娘の棺に入れてやった。
今頃、娘はハンカチをしゃぶっているのだろうか。
もうあれから二週間以上経つので、しゃぶりつくして、母乳はほとんど残っていないかもしれないけれど、私たちが娘に持たせてやれたものは少ないので、ハンカチは私たちとのつながりとして持っていてほしい。
(なーんて! ハンカチは全部灰になってしまって、娘は乾いた骨になってしまっている!)

そして、娘の葬式の日。
娘の小さな体を燃やして、ほんの少しの軽い乾いた骨だけが帰って来て、
私は白いきれいなカバーがかかった骨壺を、葬儀場の控室に置いた。
控室の片づけをして引き払わなければならなかったが、その日の夜は通夜の予定もないから急がなくてよいと言われていた。
控室の冷蔵庫には、娘の弁当にし損ねたシリンジがひとつ、まだ入っていた。
私はそれを小さなコップに注いで、骨壺の近くに置いた。
私は、この液体が娘の口に入っていく様子を想像した。
たとえば……たとえば、エクモから奇跡的に娘が生還して、目を覚ます。
ぱくぱくさせる娘の口に、この液体が注ぎ込まれていく……恍惚とした表情……娘はもう生後30日くらいになっているかもしれない。いや、もし娘がもし生後2年とか10年でも、もう初乳を飲むような日齢では全然なくっても、もしこの液体が、どんなに遅くなっても、娘の口に入っていたら、私はとても安心しただろうなと思った。

夫は、「あなたがとても頑張って絞った母乳を、娘に飲んでほしい」というニュアンスで、
娘に母乳をやりたかったと言う。
それは私をすごく尊重してくれる言い方で、とてもありがたいのだけど、
私は、私が頑張って絞ったから、母乳を飲んでほしかったのではなかった。
妊娠中から、赤ちゃんが生まれて一週間以内に出る母乳は「初乳」といって、
特別な免疫物質が入っていて、赤ちゃんの体にとてもよい、という話は聞いたことがあった。
もし、その黄色くてどろっとした初乳が、娘の口に吸い込まれていくのをこの目で見られたら、とても安心しただろうな。
この世のいろいろな病原菌やウイルスや、その他もろもろの危険から守ってやることはできなくても、
私が持っているほんの少しの免疫のかけらが、その液体を通じて娘に入っていくのを見ることができたら、ああこれでほんの少しは娘を守ってやれる、と、とても安心しただろうな。

でも、守ってやれなかったし、結局娘は何らかの菌に感染したことが、体調を大きく崩すきっかけになったのだ。

母乳を搾っていると、そんなようなことが、たくさん思い出されてくる。
もちろん、母乳を搾っていなくても、たえず思い出されてくるが……
少なくとも、母乳を搾っているときはずっと、そんなようなことを、ずっと考えている。

だから少しずつ、母乳を搾る量や回数を減らさなければならない。
今は、搾る回数は1日に4回、1回あたりに搾る時間を左右それぞれ5分ずつに設定しようとしている。
しかし、今日試してみたら……やはり、時間が空くと胸が張る。
特に、1回あたりに搾る時間を大幅に減らしすぎたように思う。
ベッドに入っても、胸がごつごつと痛くなってきて、眠れない。
仕方なくて、深夜三時に起きだしてきて搾ることになった。

母乳バンクに送っているし、四十九日には娘に搾りたての母乳をあげたいから、これまではあまり大幅に母乳を減らす策をとってはこなかった。
前回の記事には、「乳房には、娘が死んだことをばれないようにしている」というようなことを書いた。
しかし、そろそろ潮時なのかもしれないと、深夜に搾りながら思った。

私の乳房は、左はエース、右は準エースと名前がついているが、より張り切っているのは準エースの方だ。
準エースを搾りながら、
「赤ちゃんは死んだんだよ」と話しかけてみた。
「赤ちゃんは死んだんだよ。だから、もうそんなに頑張らなくていいんだよ」
石みたいにゴツゴツした乳房をマッサージしながら、少しずつ搾りながら、そう声をかけていたら、だんだん涙が出てきた。

駄目なのだ。
娘のことを、娘のことを知らない(と思われる)人に話すと、泣けてきてしまう。

妊娠というのは難儀なもので、はたからみると「妊娠している」と一目でわかる。
私の住む地域を担当している顔見知りのヤマトのおじさんが、先日私に「生まれはったんですか?」とたずねた。
ヤマトのおじさんに「もうすぐ生まれるんです」という話をしたことはなかったが、妊娠しているとわかっただろうし、もう妊娠していないということは生まれたんだろうと思ったんだろうな……当然……
もし、その時私の家に生きた娘がいたら、「生まれました!」と笑顔で答えただろうし、見栄っ張りでおしゃべり好きの私は、愛想よく「見ます!?」とでも言ったかもしれない。(わからない。乳児をそんなふうに誰かに見せることがあるのかどうか…育てたことがないから、リアリティのある想定ではないかもしれないが…)
でもその時私の家には生きた娘がいなかったから、私は言葉に詰まった。
おじさんはすぐに気づいて、「聞かない方がよかったですか」と言ったのだが、私もなんて言えばいいかわからなくて、「生まれたんですけど、死んじゃったんです」と言った。
新生児で亡くなるのは、現代日本では1000人に1人らしい。残りの999人にとっては「生まれはったんですか」と聞くのは適切なコミュニケーションだと思う。
ただ、おじさんが引いたのは私だった。
駄目だった。冷静な会話はぜんぜんできなかった。
涙ぐんでしまったし、おじさんは気まずそうに帰っていった。

宅急便のおじさんに話すときに涙ぐむのは、百歩譲ってよい。相手は人間だし。
でも、乳房にも駄目なのか。と私は思った。

こうして、娘が死んだことを、少なくとも準エースには伝えた。でも、伝わったかどうか… こうして書いている間にも、キーンという、乳を作っているという鈍い痛みがある。もうがんばらなくていい。乳を飲む赤ちゃんはいない。しんぼうづよく伝えていくしかない。
私も、娘が死んだことを永遠に泣きながら話すわけにはいかない。
少しずつ、距離をとっていかなければ。少しずつ、娘が死んだことを自分と少し離れたところにおいて、冷静に見つめられるようにならなくては。

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