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池井戸潤 著『シャイロックの子供たち』

「シャイロック」とはシェイクスピアの戯曲『ヴェニスの商人』に登場する、強欲で非道な金貸しのことで、その末裔のような銀行員がたくさん登場する銀行の裏側が描かれている小説。

これが連載されていたのが2003年と、今から16年も前だということに少し驚く。「家族のためには、どんなに辛い仕事も耐えるしかない!」というような気持ちで生きている人は、少しずつ社会が変われども、未だスタンダードだと思っているので。

池井戸潤さんも元銀行員なので、銀行や、融資を受ける会社にまつわる小説が多いけれど、そこで描かれているような会社の不正を読んでいると、たった今、今日のニュースにもなっているような出来事にも既視感を覚える。どうやってそれらの不正が行われたのかは、単純な構図ではない。たとえば一人の人間の生き方、育てられ方、社会での立ち位置、プライドなどといったことが、その先にある組織の在り方に大きく関わってきたりする。

自社の利益最優先の会社において、上に認められ出世したい、家族に優雅な暮らしをさせたい、みじめな思いをしたくない、圧力に抗えないといった想いから、不本意な仕事のやり方に手を染めてしまうという構図は、なかなか複雑だ。

大きな会社が不正をはたらいたというニュースを見ると、上の圧力がすごかったんだろうな、などと単純に考えてしまうけれど、その圧力に抗えない個人の精神的理由には、様々な背景がある。

社宅から早く出たい、マイホームを持ちたい、そういう理想の家庭をつくりたい。そのために昇進したい。昇進するためには、顧客のためにはならなくても数字で会社に貢献しなければならない....みたいなループにはまっている人は、多少形は違えど、今の世の中にもたくさんいるんだろうなと思うと、「幸せとは何か」という議論をしたくなる。

一番思ったのは、たとえ希望の高校に進学し、希望の大学に進学し、第一希望の会社に採用されたとしても、そういう人間はほとんどが、そこから先もこれまでと同様に最高のパフォーマンスを発揮し続けなければならないということだ。22歳くらいまで必死で努力した甲斐があって、その後は何も頑張らなくても優雅な生活が送れるということはないのだ。

そして、優秀かどうかにかかわらず、社会に出て働き始めたとして、その場所で走り続けているのが楽しかったり、もっと加速したいと思えたなら最高なのだろうけれど、もし、とても続けられなさそうだなという境地が見えてきた時に初めて、なぜ働くのか、生きるとは何かと改めて考えるのかもしれない。

なぜなら私たちは10歳に満たない頃からずっと、ただ列を乱さないようにという教育を受けてきたからだ。学校において従順で統率しやすい人間は、社会に出てからも重宝されるだろう。そういう歴史を何十年と創ってきた上司がいる限り、その流れを変えることは難しい。

けれど、人生を俯瞰で見たときに、自分の周囲の人間が目指す生活が、自分にとって、自分の家族にとっても目指すべき生活なんだろうか。身体や心を病みながらも周囲から見劣りしないことが幸せなのだろうか。広い家に住めば、家族の時間や心はすれ違っていてもいいのだろうか。はたまた、べつに家族をつくらなくてもいいのではないか。

そういうことを発言しやすくなったのは、ここ5年くらいのことのような気がする。同時に、数十年前から積み上がっていた様々な会社の不正がどんどん明るみに出ている。「なんだ、やっぱりみんな無理していたんじゃん!」と思う機会はこれからもどんどん増えていくんだろうと思う。

昭和の時代から繋がっている組織の慣習がほころびはじめ、今私たちは改めて幸せとは何かを考える時代に生きているのだと感じた。

いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。