好きと嫌いの距離
「東京ポッド許可局」(ラジオ)でマキタスポーツさんが言っていたことが、ここにも書かれていた。
「好きだと解らなくなって、嫌いだとすぐ解る」と「好きだと解って、嫌いだと解らなくなる」問題
どういうこと?と思うが、マキタさんが挙げている例はこうだ。
・「好きだと解らなくなって、嫌いだとすぐ解る」
パクチーが大好きな人は、料理の中に少量入っているそれを「物足りないな」と思うけれど、パクチーが嫌いな人は、どんなに微量でもすぐに感知する。
・「好きだと解って、嫌いだと解らなくなる」
パンクロックが好きな人は、バンドや曲の違いがもちろん分かるけれど、嫌いな人は誰のどんなパンクロックも全て同じに聞こえる。
「好き」だからそのことに対して常に敏感であるとも限らないし、「嫌い」だからこそ、そのことに対して敏感になることもある。(その逆もある。)
世の中のいろいろな人の意見を目にする機会が格段に増えた私たちは、これらのある種「歪み」を認識して、何かがひっかかったときは「この人はどういう立場で言っているんだろう」ということを、一旦考えてみたほうがいい
そういうメッセージかなと思った。
「許可局」のなかでプチ鹿島さんが、アンチもそうでない人も、同じマニアックな知識を共有していたりすると言っていた。
そう、「○○嫌い!」と言いながら、その○○についてめちゃくちゃ詳しい人もたくさんいる。
嫌いすぎてめちゃくちゃ詳しい
詳しく知ったら嫌いになった
この文の「嫌い」は「好き」にも置き換えられる。
マキタさんも奥さんも、地震を怖いと思っているのだけれど、マキタさんは怖いからこそ、そのことを知りたくなくて鈍感になり、奥さんは怖くて回避したいから、地震についてのあらゆる知識を身に付けて、感性が研ぎ澄まされた。ついには、奥さんが夜中突然飛び起き子供を抱えて外に出たら5分後に地震が来たということが起きるようになったらしい。(すごい。)
私も「この人嫌いなのに、なんでこの人のことを詳しく調べてしまうんだろう」と思ったことは何度もある。
西野亮廣さんは、自分のことにとても詳しいアンチに対して、もうファンじゃないか!とよく言っている。
極端に嫌いと極端に好きは、同じマニアックな知識を共有していたりするのだ。極端に好きと極端に好きは、とても近いところにいる。対局にいるのが無関心だ。
そう考えると、自分のよくわからなかった感情がすこし整理されてくる。
深いテーマだなあと思うので、これからそんなことを気にしながら生活してみたい。(1051字/28分)
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