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儲けがなくてもやりたいこと

最近私の好きな人たちは、0円(とかそれに近い形)で人に提供したいものがあって、それを実現させるために違う仕事などを頑張るという人が多い気がする。

もちろん、好きなことだけしかやっていないし、それで生活には十分だという人もいると思うし、それも素晴らしいことだなあと思う。なかなか難しいことだなあとも思うけれど。

坂爪圭吾さんは先日「お金さえとらなければ、今この瞬間に夢を実現できる」と言っていた。

カフェを経営したいとなると、やらなくてはならないことは多分100個以上あると思うのだけれど、家に来てくれた人に無料で料理をふるまうなら、何の届けもいらない。

カメラマンになって写真展をやりたいということが夢だったとしても、カメラマンと名乗って写真展をやることは、やろうと思えばすぐにできる。

もちろん、ギャラリー等を借りるとしたら結構お金がかかるけれど、0円に近い形で展示をする方法は、考えればいくらでもあるだろう。

小説も漫画もイラストも、noteにハッシュタグをつけて投稿すると、無名でもとりあえず誰かには絶対見てもらえる。小説家とか漫画家の明確な定義は無いと思うので、自分で名乗れば小説家であり漫画家であり、カメラマンであると思う。

私は#日記 #エッセイ というハッシュタグで検索する人っているのかな?と思っていたんだけど、#日記 #エッセイ と書いただけで、明らかに読んでくれる人が増えた。

noteってすごい場所だなあと思う。

でも、その分参入者も多いし、反応がとてもダイレクトだと思うので、自分の今の市場価値がよく分かるとも言える。

特に反応がなくても続けたいのか、「有名になりたい」ということが夢ならば、0円で叶うということとは違うけれど。


坂口恭平さんは、こんなことを言っている。

ほんとうにやりたい儲からないことをやるために、他で稼ごうということは、実は結構多くの人がやっているのではないだろうか。

坂爪圭吾さんは「ごちゃまぜの家」という、誰でも自由に来て泊まってもいいし、なんでも自由に使ってもいいし、食材もあるよ、という家を横浜で運営している。

私は、一泊いくらとか値段を決めて誰かに泊まってもらいたいとは思わない。あるひとは「一泊2000円とかとればいいじゃん」と言う。しかし、値段をつけると値段が全部になるみたいだから嫌だ。先日、ごちゃまぜの家に泊まった男性が「お世話になりました」という置き手紙と一緒に、二千円をテーブルの上に置いて帰った。同じ二千円でも、宿泊費が二千円と決まっているから払われた二千円と、宿泊費は無料であるにも関わらず「なんだかめっちゃよかったから二千円を置いて帰りたい!」と思って差し出された二千円では、金額は同じでも込められた意味はまったく異なる。形式によるものではなく「自発的にそうしたくなった」という、湧き上がる純粋な気持ち(通称・あふれちゃん)を大事にしたいのだと思う。

しかしそんな坂爪圭吾さんは今、運営資金が底をついたらしい。

このままいくと「ごちゃまぜの家」は存続があと5ヶ月の危機だそうだ。

でもきっと、生かしたいと思う人たちの力によって生かされるんじゃないかと思うし、私も微力だけれど協力したいし、微力×多数の力が集まって、きっとこれからも在り続けると思っている。

山下陽光さんが、もっと値段を上げても売れるのに、あえて自分のブランド『途中でやめる』の服を安く売っているのもそう。

私が傍から見て、すごいセンスだなあと感動してしまうような人たちも、ほんとうに一番やりたいことでは儲けられないのだ。逆の言い方をすると、一番やりたいことは「儲ける」こととはどうしても対極になってしまうのだ。

そう考えると、「やりたいことでお金を稼ぐ」ということを目指して行き詰まってしまう時は、やりたいことをやるために、どう生活をしていこうかなという視点で生き方を考えたほうがいいのかもしれない。やりたいことがあればの話だけれど。

やりたいことを職業にしている人でも、その仕事の中で、無償でもやりたいことと、生活のためにやることを分けていたりするんだということを知ると、自分がお金にならないのにやっている、傍からみれば「作業」みたいなことはなんだろうと考える。

少なくとも、こうやって書いていることは、ただやりたいだけのことなんだなあ。

この時間を確保できる程度には働くというのは、今自分が働く意味だなあと思う。

#日記 #エッセイ  

いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。