2019.4.4 グッドバイと養老孟司

今野裕一郎監督『グッドバイ』を観た。
映画はとても観念的で、死や存在のあわいを往来する断片で構成され、ひとりではとてもまとめられそうもなかった。ただ、通夜の帰りだという山下澄人がアフタートークで監督をも唸らせるみちすじを付けてくれた。内容はかなりうろ覚えだが、そこからの思考として記していこうと思う。

私たちは死になじめない。現代の日本では、一体となって儀式をするほどの信仰も、一人一人が感情を解放するゆとりもない。無関心でいられるわけでもない。まるで隣り合う意味など持たない都会の建物の形のように、他者の死を前にした私たちは社会の中で心身の動かし方を失い、体幹は微動だにせず、不自然にばらばらのまま立ちすくんでいる。
坊主の説法は囁くようで聞き取れず、もはや参列者でなく死者に向けて話しているようでもある。
五感と想像の記憶が混ざってしまい、実際にあったことかどうか一人では判断できない。いま体感していること、目の前にいる人でさえ、存在を確かめるすべがない。逆に、いまここに五感として感じられない存在のことを、確かにそこに「在る」と感じることもある。
そのわからなさ、なじめなさ、偽物っぽさを、そのまま正直に表したらこうなるであろう、というむしろストレートな物言いがこの映画にはある。きれいに、うまく、物語がまとまったエンタメ映画を観るのは楽しいが、自分が作ろうとして作るものではない。なじめない人による、なじめない人のための、なじめない映画こそ作る意味がある。

監督はわからないまま作っていたと言っていたが、たぶん、わからないから作るのだと思う。
今日、SNSで目についた養老孟司の講演動画を流し聴きしていたら、「表現とは止めること」という話が出てきた。人は絶えず移り変わってゆく動的なもので、一瞬前の自分はどんどん消えていく。でも、言葉や絵や音なんかにして記録すると、それは形を変えずにずっと残る。動いてしまってつかめない精神を止めてみるために表現するということ。そして、心に決まった私という存在はなく、アイデンティティーを持つのは常に身体だということ。

他者の心と交流しようとするほどその存在は曖昧になっていく。私たちのなじめなさはたぶん、不安定な心をまとめようとすることへの抵抗だ。そして死や行方不明を含む肉体の不在は、不安定な心だけで交流し続ける約束となって私たちを永遠になじめなくする。信仰はそこに代わりの肉体を与える助けをしているのかもしれない。
映画では、川の向こうにいた男が会いたい女の顔を思い出した瞬間に川を渡ることができる。踊る女は川の向こうの男を対岸に導くような役だ。それは身体だけに宿る現実感の発露と捉えることもできる。
反対に、川の向こうの人たちが日付と国の名前と人数を無感動に呟いていき、それがテロの死者であることを読み取れる場面がある。その音声は私たちでは肉体を与えようもない亡霊で、露骨になじめなさが表れていると思う。
ただ、その表現をインプットした私たちの中には、想像の記憶として彼らの曖昧な存在が生まれ、映画とともに動き始めるだろう。それはニュースで見るよりも現実に近い交流になるかもしれない。アウトプット=表現で止めることの効能は、むしろ生きた循環を駆動させることだ。不在に惑うこの映画がむしろ身体的なパフォーマンスで構成されているように。

死を免れることはできない。私たちができる一番いい方法は、不安定な心をまとめようとしないで踊り続けることか、アートを肉体にして神様のように振る舞ってしまうこと、もしくはその循環、かもしれない。

↑長いですが、面白いです。


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