2019.3.16 sat 情報社会の出会い方

 鑑賞は、その対象を想う時からはじまっている。

芸術人類学者の中島智さんがこんな話をSNSに投稿しているのを見たとき、私には思い当たる瞬間がたくさんあってとても納得したのだった。

流れの速いSNSの画面上、毎日膨大な量の文字とイメージの情報を目にしていれば、「名前と顔は知ってる」「あのへんの人と仲良くしてる」「たぶんこんな仕事をしてるんだろう」「こういうのが好きなんだろう」くらいの像を持った他人が増えてくる。それはとても不思議な感じがする。
こちらが一方的に得た情報だけを抱えて実際にその人に会ったとき、他の人はどんな風に話を始めるんだろうか。ちょうど一昨日、私がとても尊敬しているミュージシャンに小さな飲み屋で偶然会ったとき、友人や他の常連客たちと談笑している彼にどう話しかければいいのかわからず黙りこくってしまった。どんなに有名になっても人は日常生活を送っていて、お酒を飲むときは私がその店に入るのと何ら変わらない気分でいるはずだ。「あなたのファンです」と言って突然こちらの話を始めるのも違うし(たぶん想いが強すぎてまとまらない)、かと言って「はじめまして」と落ち着きはらって話しかけるのも難しい。せっかく店主が近くの席に座らせてくれたのに、大緊張してそんなことを考えているうちに彼らは帰っていった。少しほっとして、その後すごく落ち込んだ。
それで昨日はずっと、人との出会いの適切な速度について考えていた。昼過ぎから渋谷WWWで開催されるライブイベント『Alternative Tokyo』に行く予定だったから、時間までそれに出演する韓国のアーティストLang Lee(イ・ラン)の個展『どもだち・ヂング』を見ようと思い立った。彼女はそれこそ私にとって「SNSで像の作られた他人」で、ただその像に興味があったから、機会があれば何か見に行こうと思っていた。自分で歩いて見に行くところから始める以外のことがなぜか考えられなかった。本も音楽も手に入れようと思えばあるのに。でも本当に、例えば飲み屋で会って話すように、その人に出会いたいなら、家やスタジオに籠って孤独に向き合って作られた断片よりも先に、その人が足を運んで飾り付けたよその展示や、今そのものがあるライブに行った方がいいんじゃないか。こんにちは、はじめまして、と挨拶したいから、私にはその方が自然に思える。なんだか神社のお参りの作法みたい。でも日本人にとって神様は親しい存在だと思う。むしろ、だからこそこの礼節の感覚があるのかも。コーヒーを飲みながら壁に掛けられた絵や文章を眺め、隣の席の会話のようにささやかに彼女の音楽が聴こえてくると、これからステージで歌うであろう彼女と「ともだち」になれそうな気がしてきた。
田舎にいた頃は足を運ぶことが難しくて、情報に頼っているうちに像が肥大してしまって、それで前の晩みたいな、実際会った時に距離感が狂って何もできなくなるようなことが起こったかもしれない。東京に暮らし始めてから出会ったものならあまりそうならないと思う。目の前のものの方が信じられるし、ごちゃごちゃした情報に委ねるよりも、何より歩けば目の前にあるのだ。いろいろ考えすぎてしまう自分にはその方が合っている。

憂鬱だった気持ちが少しなだらかになって、開演時間を過ぎたライブ会場に向かった。イ・ランは二番目だ。想像していたよりスマートで華のある女性がステージに立ち、一言めに「暗いです、なんか怖いから明るくしてください」と穏やかな口調で会場を笑わせ、70万円紛失の話と物販の宣伝からライブが始まる。チェロ奏者と二人で向かい合い、背後に韓国語の歌詞の和訳が映し出された。一曲目の歌詞を追いながら私は驚いていた。

私の抱えていた問いに、彼女が問い返していた。きっと私の今日が彼女に導かれていたのは、彼女がそういうことを考えながらものを作って発表する人だからで、私が今日まで彼女の情報を知ろうとしていなくても、SNSや誰かの話で曖昧に育まれた像の中にも確かに彼女の感覚はあったのだ。それが興味を持つとか、魅かれるということのひとつの正体のように思える。

 鑑賞は、その対象を想う時からはじまっている。

イ・ランだけではない、これまで私はこんな風にたくさんの人と、ものと、導かれるように出会ってきた。それは霊感みたいな話ではなく、自分が求めているものとしっかり向き合い、外にあるものや動きをよく観察することができれば、人は一瞬早からず一瞬遅からず、対象と出会うことができるということだと思っている。たぶんそんな経験をたくさんの人がしているはずだ。情報は泉の水のように湧き出てくるけれど、その在り処を知っていることと、飲みたいときに飲みたい分だけ掬うことは別なのだ。
1時間弱のライブの中で私は十分に彼女と話し、彼女の70万円と話の続きのために、CDと本をあるだけ買って帰った。今それらを手元に置いて、聴いたり読んだりしていない間にも、鑑賞は続いているのだと思う。もし彼女に会ったら私はなんて話しかけるだろうか。少なくとも「よく聞いていますよ」ではない。像が大きく育まれていくほどに、最初の行為が選び取れなくて、とにかくひとまとめにして渡そうと、人は文章を書いたり、歌を作ったり、絵を描いたりして伝えようとするのかもしれない。そうだ、まずは自己紹介から自信を持ってできるように、私はやっぱり歩いて作って繰り返そう。きっと一瞬早からず一瞬遅からず、出会いが巡ってくるはずだから。それだけは、なぜだかずっと信じている。たとえ天国でジョンレノンに会っても、堂々と自己紹介して友達みたいに乾杯するために、死んでも気を抜かないでやろう。

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