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人の意見は聞くな。

僕は起業する時も、人生において何か大きな決断をする時も、周りの人間に相談してこなかった。両親や身内にもだ。
実際、「東証一部上場企業を辞めてミャンマーで起業する」なんて相談をした日には間違いなく反対の嵐だったに違いない。

元々僕は良く言えば慎重、悪く言えば臆病、ヘタレだ。
ともかく石橋を叩いて渡るタイプの人間なので、周りの人に反対されたら決断できずに引き続きサラリーマンをやってたかもしれないと思う。

「人の意見を聞きなさい」は乱暴な教訓

日本では、小さい頃から「人の意見を聞きなさい」とよく言われる。
あまりに当然の教訓で疑問に思わないかもしれないけれど、この言葉を盲信するのは危険だ。

この教訓の真意は、
・周りの人間の意見を聞くのは、自らの経験不足を補うために重要
・どんな人間でも間違いがあるから、多くの意見を取り入れる事で判断ミスを少なくできる
といったところだと思う。
ただこの教訓は、メリットにフォーカスし過ぎている。

デメリットを挙げるなら、
・多数派に傾倒する可能性が高く、少数意見や個性的な行動を制限する
・大きな決断が必要なほどの重要事項を相談し得る周りの人間の数は、それほど多くない
・知識や経験に差がある事で、アドバイスが的を得ない
といった側面がある。
が、このデメリットについて語られる事は少ないように思う。

例えば僕のように「起業したい」「海外で会社作りたい」だったり、「ハワイに住みたい」「1億円投資したい」など、それが突飛であればあるほど潰される可能性は高くなる。
決めかねるほど大きい決断だから相談してるのに、それが少数意見であればあるほど反対され、決断できなくなるジレンマがある。
これは実にもったいない。

そして、このように多数の人間に物事を相談する行為は多数決のプロセスと類似していて、問題点も同様だ。

多数決は集団の合意形成の一手段に過ぎない

そもそも多数決というのは、会社や国家など多数の人間の集合体において、参加する人数が増えるほど全員納得する事が稀であるために生まれた「八割の人間が納得するアイデア収束技法」に過ぎない。
つまり多数決は、組織を前提とした、ある意味で「妥協」の合意方法であり、これを個人の決定事項に流用する事自体、問題に対する解決手法としてはミスマッチだ。

さらに、多数決を個人の決断に流用してはならない大きな理由として、責任の有無がある。

組織は参加している人間に利害関係がある。会社であれば同じプロジェクトに参加する人間は大小の差はあれ責任を負っているし、国家であれば選挙において国民は結果に対する利益・不利益を直接被る。
しかし個人的な決定事項は、相談される側にあまり関係の無いケースが多い。責任が無ければどのような決断だとしても、言葉は悪いが他人事に過ぎないのだ。

「死んでもいいから宇宙行ってこい」と言える親なんてほとんどいない

「じゃあ他人じゃなく、もっと真剣に考えてくれるであろう両親や身内に相談すればいいじゃないか」
という意見もあるだろう。

しかしこれには別の問題がある。
「子供や身近な人間には幸せになって欲しい」
「なるべくつらい思いや危険な目に合わせたくない」
「おかしな行動を止めるのも親の役目だ」
など、本来の相談内容とは関係の無い感情が、議論の成立を邪魔してしまうのだ。

「宇宙旅行の時代が来るから、会社辞めて宇宙船作って宇宙行きたい」
なんて自分の子供が相談してきたら、
「何言ってんの、そんな事止めなさい」
と言う親がほとんどだろう。

そこに議論は成立しない。
子供に対する生物的な保護本能が勝つ。

同じ事をホリエモンやイーロン・マスクが言ったら、止める人は一気に少なくなる。実際、時代の寵児とばかりに世界中が称賛している事実がある。
これは赤の他人だからだ。

「子供の意思は尊重したい」
という思いも確かにあるが、残念ながら生物的本能に贖うのは難しい。

「死んでもいいから宇宙行ってこい」と自分の子に言える親は、ほとんどいないのだ。

世界の八割の人間は一般人

じゃあ会社の人間はどうだろう。
よくやりがちなのだが、起業する時に会社の同僚や上司に、
「退職して起業したい」
と相談する人が多い。
が、これは本当に意味が無いと思っている。

どんなに信頼している同僚も尊敬する上司も、その人達は「その会社で働く事を選択した人間」なのだから、ある意味では自分の人生を否定されているともいえる。心情としてはもろ手を挙げて賛成しにくいだろう。人的リソースでマイナスを被る事になる上司ならなおさらだ。
それでも背中を押してくれる人もいる。ただその人はなんと言ってくれるだろうか。
「頑張れよ」「応援してるぞ」くらいの精神的な励ましなら問題解決になっていない。
応援や心配をしてくれるのはもちろん嬉しいんですけどね。

もっと言えば、裏を返せば八割の人間は一般人なのだ。
組織を成立させるために、出る杭は打つか、もしくは無意識にそういった思考になっている。
何なら「部下が退職を願い出た場合」のマニュアルが決まっている事だって往々にしてあり得る。
その組織の構成員たるメンバーに相談したところで、果たして的を得たアドバイスをどの程度期待できるだろうか。

じゃあ誰を頼ればいいのか

例えば起業の場合、相談すべき相手は社長や起業家だろう。できれば自分が目指す事業領域における専門家の方が良い。そのほうがより具体的なソリューションや経験談を聞くことができるし、自らの決断の成功確率は飛躍的に上がる。

先に挙げた「宇宙事業をしたい」という意思であれば、NASAやJAXA、宇宙の専門家の意見を参考に、学術・科学的実現可能性をジャッジし、自分の考えに具体的な説得力を肉付けし、ようやく決断する土俵に立てるはずだ。
青森の山奥の田舎の我が両親に相談しても、実現する可能性はそれこそ天文学的確率だ(上手い事言った)。

そういうわけで僕は身近な人間には一切相談しなかったが、その代わり先人達の本やインタビューを読み漁ったし、同調できる経営者の講演会があれば地方や海外まで聞きにいく事もあった。
失礼を承知で著名な経営者に突然メールやメッセージを送った事もある。それでも好意的に、かつ的確にアドバイスを頂ける事も多かった。

きっと、本気だったからだと思う。
この決断を誰にも止めて欲しくなかったから、僕は相談する人を選んだのだと思う。

本当に相談すべき人が誰かは、実はわかっている

タイトルに戻るが「人の意見は聞くな。」というのは、正確には、
「人生の重要な決断を、偶然そこにいただけの周りの人間に相談するのは雑な行為だ」
というのが本意だ。
自分が本当にやりたい事、決断したい事が本気であれば、相談する側の人間の選定も本気でやるべきだ。

毎日の生活に伴う相談事などは、日々の時間を一緒に過ごしている身近な人と話すし、それは当然否定しない。
だけど、人生の大きな決断において相談すべき相手は、実は親でも同僚でも友達でも、配偶者でさえないのではないか。

その相手は、うっすらでもあなたが確かに感じている、その道の先にちゃんといる。
本当はもう、其処にある新しい人達との出会いも、新しい景色も、見えているはずだ。

それを疑わずに一歩踏み出すことが「自分を信じる」という事なのだと思っている。

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