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持続可能な連休の過ごし方

タイトルにすることなんて一つもない、そんなゴールデンウィークだった。

noteには前向きな決意とかクリエイティブな悩みとか人生哲学とか真面目なおふざけとかを綴っていきたいのに、このところその琴線が動くレベルで湧き上がる感情は、塞ぎ込んだような陰鬱としたものである。
少しの仕事と、気になっていたカフェ、観たかった映画、大事な人たちと過ごすゆっくりとした時間。この上ない幸せのはずではあるけれど、「こんなに長い休みがあったらしていたはずのたいそうなこと」がごまんと思い浮かび、充足感を感じさせてくれないもう1人の自分がいる。

確信を持って好きで、後悔がないと思っていた公私混同のエンタメの仕事は、この春からこれまでよりもメジャーな分野で闘っていて、そうすると当たり前に手強いプレイヤーが世界に増え、異動して半年も経つのに全然思うように行かない。類い稀で幸運な立場にいることを忘れそうなほど、日々閉塞感を感じている。
「そこまで面白くなくても、うまい具合に予算を使って、手遅れでないタイミングで、まあまあの何かが世に出ればいいんじゃないか」ーーそんな恐ろしすぎる声が自分の頭に届いた時のショックと言ったら、なかなかのものだ。街に悪魔でも出没したかと肩の向こうを振り返った。

担当イベントに関連して、全く興味のなかった版権もののシリーズに100時間以上のインプット時間を捧げることになった時、どこかでホッとしていたのかもしれない。これは「受け身」だが「怠惰」ではない。プライベートの時間を犠牲にしてまで仕事のために勉強しているなんて見上げた姿勢じゃないか、という声すら聞こえる。でもそれは、ただ飛び級して上澄みの満足感を味わっていただけなのではないか。作品知識や時間をコミットしたという事実は、信頼を得るための武器になり得ても、生産性がないことへの言い訳にはならない。
ただ、とにかく、自己肯定感の雪玉が転がり始めるための小さな成功体験が全然得られる見込みがない。

友達や同期が転職していく。新入社員が入ってくる。気がつけば中堅社員に足をかけている。ずっと先延ばしにしているメールの返信や、私が企画書を出すの待ちになっているブレスト会、何か面白いことしましょうねと言ったきりの打ち上げのその後。そんなものをOulookに自分で作った「pending」のフォルダに押し込んだままの自分では、新天地に移ろうがなんだんろうがずっとそんなものなのだろう。選択肢の妄想は、ステップアップではなく、都合の良いリセットへの逃亡ではないかと思ってしまう。

自分が世の中にそして周りの大事な人たちに提供できる価値って何なんだろう。久しぶりに知人と集まれば、近況報告で言うようなことが全然無い。紅茶を入れてデザートを買って自分の機嫌を保って健やかな心で過ごすこと、週に1度は家を掃除して人間らしく小綺麗でいること、それを保っていると、それだけでいいはずなのだけれど、やっぱり理想の締め切りに追われていない自分をあまり好きになれないでいる。

こうしている間にも現実のタスクは公私ともに積まれていき、私が発揮する以上のものを先回りして期待してくれるような人も、締め切りと課題とほくそ笑みたくなるようなフィードバックも用意されない。自分の泉は機械式なのだ。
今は、打席に立つどころか競技の選択とエントリーの有無さえ自分で選んで良いのだという自由が果てしなく広がっている。もちろんなにもしなくてもいい。私は自分の人生の状況に対して住めば都精神を適用する才覚に恵まれているが、それは受け入れるべき状況がさして壮絶でもなかったからなのではないかという心の指摘はかき消せるものではないから、そうでない場所へ行く正しい靴を持っていないと目を背けている。
私を好きだと言ってくれる大事な人たちはみんな、それぞれに素晴らしい時間を過ごしている。英語でいうbetter version of meでいたいと思わせてくれる人たち。こんな状態にあること自体が顔向けできない恥ずかしいと思うような日々である。
でもアイデアというものは、思い付いた時が一番楽しくて、その先はほんとに心が折れる。そこを踏ん張る力がないかも知れないと悟られたと感じた時の喪失感がつくる傷はあまり簡単には癒えない。
感想語りですら一つの能力として捉えられ始めている気がして、迂闊に思いのままなんて投稿できない。心の永田智が「コンテンツのフォアグラになるな」と叫ぶ。軌道に戻りたい。調子を取り戻したい。「やる気が出ない」とぼやいているだけのこの状況をどうしたら良いかわからない。この思春期はいつ終わるのだろう。

まるで救いようのない、恥ずかしい文章の羅列で忍びないけれども、何かをしているという気持ちにならないといつまでもここから抜け出せない気がしている。エヴァハンセンでも自分への手紙は心理的な療法の一つだという設定があった。中学2年生で生物を教えていた少しヒステリックな教師は、どんな小さい行為でも継続は自信につながると言っていた。昔学年で1,2を争う秀才だった同級生だけが、今もリングフィットを毎日続けている。
自分の機嫌を取るだけでなく、先回りをしてプロデュースする気概を持っていた頃の自分にまで、復活したい。

私は安全を確保した上で、大きなことをすると大体その後燃え尽きるから、燃料が枯渇しないように過ごすことも大事だ。そう思うと、このくらいの連休の過ごし方も悪くなかったのかもしれない。息つく間もない多忙な連休を過ごした年には、今年を思い返してそう思えることを願う。

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