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森見登美彦「恋文の技術」は大学生モラトリアムの救いだった話

 作品にドはまりして読みつくした中学時代

 私は中学3年生の頃、森見登美彦作品の虜になった。
 田舎の中学生の私は、修学旅行で行ったことしかない京都を舞台に面白おかしく描かれる京都での大学生活に思いを馳せ、めちゃくちゃ読み込んだ。図書館派だったので、ひたすら図書館に森見登美彦の本を入れて欲しいと司書さんに懇願した。「恋文の技術」が入ったときには「恋文の技術だ!」と思わず廊下で嬉しくて叫び、周りの人間を困惑させた。

 この頃、作品の何に惹かれたのかというとオモチロイ文体と独特の世界観と、日常でありそうなのに、日常でないような微妙な世界がファンタジー好きの私の心を揺さぶったように思う。(他にはまった作家は上橋菜穂子や荻原規子、畠中恵あたりだった。なんとなく興味関心領域が被ることが分かると思う。)

 私は作家の本が好きになるととことん読む人間であったので、当時刊行されているものは全部読みつくした。
 特に気に入ったのが「恋文の技術」で、この小説は書簡体で構成されているのだが、それぞれの手紙の相手ごとに本文を読んでいくわけで、あっちの人に書いてたことが、こっちの人に書いてる時には書きぶりが違っているとか、書簡体から主人公の環境が浮かびあがるというのがなんとも新鮮で面白かった。
 この作品は、主人公が能登の臨海実験所に送られるところから始まるわけだが、能登にはよく行ったこともあるので大変親近感がわいたというのも大きかった。

「ここに出てくる大学生って優秀じゃないの?」

ただ、森見登美彦の作品を読んでいていつも疑問に思うことがあった。

「なんでこの人たちは優秀な大学に在学しているのに、こんなに自分に自信がないんだろう?就職がないといっているけどそんなことはないのではないのか?エリートってやつなんじゃないだろか?」

 森見登美彦は、京都大学出身である。そうなると、田舎のちょっと勉強はできる(?)くらいの中学生にとっては雲の上の存在である。当時、大学というのは地元の国立大学と東京大学くらいしか知らない人間にとって、京都大学なんてめちゃくちゃ頭がいいわけである。
 作中では、京都の大学であることは明記されているものの、どこの大学かは明確には書かれていない(記憶の中ではそう)。そうだけれども、京都大学が舞台なんだろうということは推察される。それなのに、この自己意識の低さはなんだ?こいつらは謙遜しているのか?小説は面白いのにそこだけはちょっとわからない。そんな感じで中学生時代は過ぎていったのであった。

大学生、ようこそモラトリアムの迷路へ!

 そんなこんなで私も紆余曲折を経て大学生になった。田舎から飛び出し、そこそこの都会に住むことになり、薔薇色のキャンパスライフは期待しなくても、まあ楽しければいいなあと期待と不安をまぜまぜにしながら新入生になったのである。

 大学生活は、まあまあ順調であった。失敗もしたけど、その分仲間にも出会えた。勉強はわかんないことも多かったけど、そこそこの成績で乗り切り、単位を得て順調に進級して行った。

 モラトリアムは楽しい。「将来のことはまだわかんない」で全部乗り切れる。モラトリアムは最強の免罪符で、なんかいろいろ試せるし、何にもしなくていいこともある。しかし、モラトリアムには終わりが来る。大学だって永遠じゃない。卒業をしなければ、次の居場所を探さなければいけないのである。いわゆる「就職活動」というやつである。

 いろいろ割愛するわけなのだが、私は就職活動に失敗した。原因はいろいろあるし、正直動かなさすぎっていうこともある。だが、これがびっくり、全く動けないのである!!!(このあたりはまた書きたいところである)もともとぼんやりした陰キャなので、企業側すら定義できていないコミュニケーション能力とかいうものもない。将来展望もやっぱりない。

 ということで、秘密兵器を使う。三十六計逃げるに如かず。大学院進学~!

もう一回、「恋文の技術」

 モラトリアム第二ラウンドが始まった。
 モラトリアムの迷路というのは本当にやっかいである。大学卒業した人にとっては「あ~大学生活いろいろあったけど、楽しかった~★」とか回顧して、社会人には社会人の悩みが待ってるんだろうけど(皆様お疲れ様です)、こっちは目下モラトリアム全開なわけで…。少女革命ウテナの学園にでも居るのか?私は出られないのか?と疑心暗鬼になってくる。

 大学院というものはそもそも研究者になるためであったり、研究が好きであったり、少なくとも何らかの研究をしたいと考えたりする人が行く場所である。決してモラトリアム逃げ場所ではない。(これはホント)
 ぼんやり陰キャ真面目人間はこういうところに引け目を感じる。「モラトリアムで進学した!」と堂々とする人はするわけなんだが、「私がここにいるのは間違いなのでは?」と布団にこもりながら考え始める。

 そんなときにもう一度、「恋文の技術」を読んだ。恋文の技術の主人公は修士課程1年である。京都から能登の実験所に飛ばされたけど、うすうす研究の才能もないことに気付いている。やはりなんとなくで院進してしまった。エントリーシートは不発。将来展望もなく、実験場から結局帰ることになってしまう。(ちょっとネタバレである)
 修士課程の存在すらよくわかんなかった中学時代と比べて、なんと身の上の分かることか!!!!!

 さすがに京都大学ほど優秀な大学に通っているわけではないが、世間から見ると私も親の金を食いつぶして大学院まで進学しているわけで、結構恵まれているほうなんだろうなとひしひしと感じる。「その大学なのに○○なの?(○○には計算ができないの?とか就職が出来ないの?とかが入る)」とも言われるわけです。

 中学生時代の私へ言いたい。モラトリアムの迷路というのは、複雑なんだと。学歴から自信なんかわいてこないものなんだと。
 ついに、小説の中のおもしろおかしいと思っていた大学生たちは、ぐずぐずのどうしようもない自分そのものになってしまったのである。

モラトリアムの袋小路で森見登美彦を読む

 「恋文の技術」では主人公の妹から手紙が届く。妹はこんなグズグズのどうしようもない主人公とは違って賢い子で、彼女は時々本質を突く。兄のまわりには、なんだかんだいいながら手紙をよこす友人やちょっかいを出す先輩たちや、親しくなった家庭教師先の子どもがいるわけで、それはありがたいことで、なかなかないことなんだということを手紙で指摘する。(詳しくは本文を読んでいただきたい)
 「恋文の技術」そのものは、学部時代の就職してしまった同期が好きだが、手紙を出せずにいる話で、一種の恋物語である。一方で、この小説の中では、ぐずぐすでどうしようもないモラトリアム学生が、実は周りの人に囲まれながら、ぐずぐずだけど日々を送っていることが綴られており、モラトリアムぐずぐず人間への救いとしても機能するのである。

 主人公のモラトリアム特有の苦しみは結局小説の中では解消されない。就職できたのかもわかんないし、修士論文が出せたのかもわからない。ただ、あえてモラトリアムのまま作品を終えてしまうということに、モラトリアムの迷路にいる私は救いを見出してしまう。

 どうしようもない自分も、どうしようもない自分を見てくれるみんなも、このどうにもこうにも出口のいかない迷路も全て、愛しいくせに、一刻も早くとんずらしてしまいたい場所、それがモラトリアム大迷路なのだ。

 ということで、私は、未だに出口が見えないモラトリアム大迷路を探索している。やはりこういうときに人を救うのが文学というやつなのかもしれない。人によっては音楽だろうし、まあアニメとか、いろいろある。即効の薬なんかじゃないけど、救いなのである…。
 大迷路の果てに何が待っているのかは、まだわかんない。それがモラトリアムである限り。

 



 

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