見出し画像

和解

和解の定義って何だろう。
ごめんねって言って握手して、何のわだかまりも無くすぐに今まで通り遊んだりできるのは幼稚園の頃まで。殴りあって笑いあって互いに理解が深まるのは少年漫画だけ。(異論は大いに認める!)

私には、もうずっと心が通じない、名前も耳に入れたくない、いや関連した単語を目にするだけで物理的に気分が悪くなる、という相手がある。
その人と、和解する夢を見た。

そう。これは、夢の話。

「〜〜の夢」、とタイトルにしてないけれど、これは夢日記です。



電車に乗っていた。仕事帰りで、疲れた体も 頭も重かった。
終電近いはずなのに満員の電車は、それまではごく当たり前に走っていた。
唐突に、「電機系の故障があって 運行が遅れる」とのアナウンスが流れる。
ああこれ、いつものパターンだ。家にたどり着けないやつだ、と思う。
私はこれを、夢だと認識している。
けれど、“夢は現実ではない”という認識ができていないので、これは明晰夢ではない。と思う。

電車、遅れるのか。
うんざりする。なかば諦める。
夢から逃れることも思いつかないまま、私は大人しく吊革に掴まり続けている。
電車は、(表面上は)何の不具合も感じさせず スムーズに走っている。

ものすごく長い時間がかかって 自宅の最寄り駅に着く。
もう、ホームも駅舎も真っ暗だ。何なら帰りの道も薄暗い。
これは死の夢なんではなかろうか。けれど、私は自宅に帰り着いた。
「あ、帰れた、」と小さく驚く。
こういう夢って、大抵は帰り着けず さまようのに。
ほっとする。
夢だと認識しているけれど、現実ではない事は認識していない。
不思議な思考回路で、私は、「珍しいことだ」とうっすら嬉しくなっている。
疲れたけれど、お風呂をわかしてゆっくり入って、それから寝よう。
と、そこで来客を知らせるピンポンが鳴る。

もう深夜だ。
ドアを開ける前からなぜか、あの人だという事がわかる。
嫌だなあと思う。居留守を使えばいいのに、私はドアを開けてしまう。

ドアチェーン越しに、ほら、やっぱり。あの人が立っているのが見える。
何かを言おうとして、ドアに かぶりつきになっている。
「もう、わかりましたから」と私は言う。押し戻して、ドアを閉めようとする。

だったらそもそも、なぜドアを開けたんだ。
私の中に、この人に対する期待がまだ残っているのか、と苦い気持ちになる。
「頼むから話をさせてくれ」と言われる。
静かに、真剣に、言われる。
私がチェーンを外してその人を家に上げたのは、
さすがに暴れ回ったりはしないだろうという予測と、あと、仕方ないという諦めの気持ちからだった。
仕方ない。
これでまた、和解のふりをした押しつけの意見を言われて、嫌な思いをして、
そして数日間あるいは数週間数ヶ月間、嫌な気持ちを引きずるんだな、と。
諦めている。
その人は、じつに心から、という風に「自分が悪かった」と頭を下げた。

「いいんです、もう」と私は言う。
「私も悪かったんです」

いつもいつも、このパターンだった。
「悪かった」と言いながらその人は、「私も悪かったんです」という言葉を引き出すと、「そうだよお前が悪いんだよ許してやるから反省しろ」と追い討ちをかけてくる。
「反省してるなら直せ。あれしろこれしろこれも追加しろ。」
ひとの話を聞くふりをしてドアを開けさせるが、それはあくまで「ふり」だ。
自分の都合を押し付けることしか、絶対に、しない。

でもいいや。

つまり私は、
夜中に家の前で居座られるよりはと、とっとと話を聞いてこの事態を終わらせる方を選んだんだ。
結局は相手の言いたい放題に言われて、心身ともに疲弊して、でも、
とっとと満足して帰ってもらった方が、話が早いと思ったんだった。

「私も悪かったんです」
と、私は言った。
けれどその人は、「そうじゃないんだ」と言った。

「そういう事じゃないんだ。そんな話をしに来たんじゃないんだ」

あれ?いつもと違うなあ。
そう思いながら、早々に帰っていくその人を見送って、しっかり鍵をかけドアチェーンをかけた。
ほっとした。
帰っていった!
もう、和解など望んでいなかったことに気付いた。
私はごくごくシンプルに、
その人が “帰っていった” ということに大きな喜びを感じていた。
和解など、どうでもいい。分かり合えなくていい。
もう来ないんだな、という事がわかった。終わったんだ。
ああこのために、我慢して家に上げたんだなと感じた。



不思議な気持ちで目が覚めた。
あれは夢だ。わかっているのに、
憑き物が落ちたような清々しい気分が止まらない。

ふと、
小泉八雲の『和解』のことを思った。
あれは、“和解”なんかじゃない。夢で、長らくの不実を詫び、夢で赦される。
自己完結でしかない。
あれを読んだ時には、なんとこの主人公のお気楽なことよと鼻白んだものだ。


では、真実の和解って何だろう。


おそらく、“真実の”和解は実在する。この世のどこかに、ある。
けれど例えば、
文言上・形式上・書類上の和解があったとして、それは互いの心が通じ合い落とし所を見つけられたわけではない…なんてことも、ある。大いにある。
わだかまりを抱えながら、それでも、
「はいこの問題はお手打ちね」とし、続きの世界を生きてゆく。
そういう事だって多いだろう、そういう事のほうが多いだろう。


終わったんだ、と感じた。

終わらせたかったんだ。私は。


終わったからといって、何も変わらない。
私は、時にはあの人を思い出し 苦々しい気持ちになるだろう。
相変わらず、あの人の周辺には近寄りたくないし、なるべくは、関連した単語を耳に入れることさえ避けるだろう。
今までと同じように。

たとえ、もしも仮に、和解が“真実に”成されたとしても。
もう あの人とは関わらないという気持ちは変わらない。
はい仲直りね。じゃ、これから仲良くしましょうね。どんどん近しくなりましょうね。とは、ならない。
だったら、和解は自己完結で良いんだ。


私はあの人に、何を求めていたのかな。
心から謝罪してもらうこと?
わたしの謝罪を、お互い様だと受け止めてもらうこと?
わたしの噂話、ありていに言えば悪口を、あちこちで吹聴するのを止めてほしかったのかな?
わたしの仕事を、認めてもらいたかった?

その全てが、不可能だ。

私は笑った。

不可能で、いいんだった。
続きの世界を生きるよ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?