見出し画像

図書室に住む夢

図書室を宿にしている旅館があるらしい。
そこが 経営不振で、宿だけではなく ひと月単位での賃貸しも始めるという。
夫が喜んで、次の引っ越し先にと即決してきた。

そんな夢を見た。

夫はもの書きをしていたが、近ごろ急に書けなくなった。
この環境なら書けるようになるのでは、と、夫本人は喜んでいる。
わたしは、この環境なら読み放題だ、と喜ぶ一方で
これでいくらでも読めるようになるなら、買って積んだままになっている本のひとつでも読めているはずなのでは、と思わないでもない。
夫が書けるようになるかはわからない。
が、そこに希望を託したい気持ちはわかる。
何でもいいのだ。
試してみるものが残っているなら、何でも試せばいいのだ。

古い旅館だった。
図書室というよりは古本屋と言いたくなる程度の広さしかなかったが、
けれど書架の間隔や整理整頓された様はまさに図書室で、これは居心地が良さそうだ。ここなら、わたしも本を読めるかもしれない。
建物の古さにそぐわず、新しめのベストセラーばかりが並んでいる。
なあんだつまんない、と思う一方、
「あ。これ、ちょっと興味あったんだよな」という本がいくつも見つかった。
ベストセラーだからと、ひねくれて手を出さなかった本たち。
つまりはこの場所で、
わたしは読めるように、夫は書けるようになるため暮らすのだ。

狭いと思っていた図書室は、意外に奥が広かった。
さあどうぞ、こちらです。と、通された先は図書室の離れで、
こちらには漫画がたくさん並んでいる。
今度はわたしも心から喜んだ。
これは全部読んでしまうな。しばらく寝不足になるかもしれない。
わたしは漫画なら、どんなジャンルでも喜んで読むのだった。
けれど さて、せっかくだから、読んだことない物から読み始めよう、
と、タイトルを見るが、
並んでいる背表紙のどれもが霞んでよく見えない。

この漫画たちは 宿の息子のものだったそうで、
つまり、この離れは かつて息子の部屋だったという。
並んだ本棚の先、窓際のスペースには、パイプベッドが残っていた。
というか、息子の生活用具たちがまだぽつぽつと残されたままだった。
ベッドには、使い古しのシーツとタオルケットが残っていた。

パイプベッドは、造りはちゃちだが、キングサイズだった。
ここに寝るのかと思ったが、宿の娘さん(あるいは、おかみさん)が来て
空いているスペースに 真新しい布団を敷いてくれた。
この、窓際のスペースはけっこう広い。なんなら小さなキッチンまである。
なるほど、陽の光に当てないよう、本は窓際を避けて置いてるんだな。
なあんだ。
宿の一室ではない、息子のいなくなった跡の、しかも元々から空いていたスペースを賃貸しするってことか。そりゃ安いはずだわ。

ねえ先生、と、宿の娘さん(あるいは、おかみさん)が言う。
「わたし、劇団で役者をしているんです」
「次の公演がなかなか決まらなくて。つまり、脚本が出来てこないんです」
「小説家の先生でいらっしゃるんでしょう。何か書いてくださいませんか」

厚かましいお願いですけど、としなを作る女に、夫はふたつ返事だった。
早速 詳しく打ち合わせすると言って、娘さん(あるいは、おかみさん)と一緒に部屋を出ていった。
まー。ハナの下伸ばしちゃって。と思わないでもなかったが
これでゆっくり漫画を物色できるぞと、わたしもワクワクしていた。

窓の外は真夏の日差し。
植え込みの緑がキラキラしていた。
全く暑さを感じないのは、エアコンが強く効いているせいだった。

ちょっと寒すぎる。
壁に掛かっているリモコンを見つけ、クーラーを切る。
リモコンは、埃まみれだった。
えっ
と思って見回すと、本の上やカーペットの端にも うっすら埃が積もっている。

かつて この離れの住人であった息子は、いったいいつから居ないんだろう。
なぜ、息子はいなくなったんだろう。

困りますよ、と、宿の主人の怒鳴り声が聞こえた。
行ってみると、図書室の真ん中で 夫と娘さん(あるいは、おかみさん)が
布団を敷き裸で布団に入っている。
こんな場所では困ります、と言う宿の主人に向かって、夫は
けれど こっそり隠れてするわけにはいかないから、と言いつのる。
身の潔白を示すためにも、衆人環視の中でなくちゃ、と。
「脚本の構想を得るためには、必要な事なんです」
「もちろん 何の過ちも犯すつもりはありません」と。

うちには娘もカミさんもいません、と宿の主人は言う。

と、すると この女性はいったい誰だ?
宿の主人と夫が言い合ってる間に、女性は姿を消していた。
夫も宿の主人も気まずそうにしているところへ、
あのう、と声をかける。
あの。クーラーが、寒すぎるんです。

離れには、リモコンで消したクーラーの他に 天井からの空調もあって
それを止める手段がわからない。
吹き出し口のデジタル表示を見ると 6℃になっていて。
寒すぎます。
わたしがそう言うと、宿の主人はいそいそと 空調の設定を変えに行った。
宿の方で、集中的に空調管理しているのだそうな。

それにしても6℃って。

ふと。
そんなにも部屋を寒くしていたのは何故だろう、と思った。
空調6℃の上に、壁掛けのエアコンまでつけて。
あの部屋で
あのパイプベッドの上で
何を、冷やしていたのか。

すみませんでしたね、と声をかけられ びくっと我にかえる。
宿の主人は お詫びだと言って盥いっぱいの生海老をくれた。
なぜ海老
多少 不気味ではあったが、
海老はピチピチと新鮮だったので、離れに持って帰ることにした。

これは白海老かな。かき揚げにでもするか。
と、
手をつけたとたん、海老はドロリと崩れ 殻だけを残して溶けてしまう。
わたしは一瞬凍りつき、そして理解した。
わたしはもう、死んでいるのだ。
この宿の息子や娘さんやおカミさんと同じく
部屋に埃がたまるくらいには もう昔に、とっくに死んでいたのだった。

だから夫は書けなくなったのだった。

わたしは夫をとても憐れに思い悲しくなったが
一方で、
そんなにも好かれていた事が どこか喜ばしい気持ちにもなった。

そんな夢。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?