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書くのを諦めた話のこと

駄文を書きたい。たくさん書きたい。もちろん名文であるならなお良い。
重要なのは駄か名かではない。重要なのは「たくさん」だ。
たくさん書いて、その中に、えげつない本音を「テヘッ駄文でーす」みたいな体で紛れ込ませたい。
笑い話に見せながら、いかに自分が辛い目にあったかを、暴露したい。
あたしこんな酷い目にあったのよ。あいつヒトデナシだよね。ねーアハハ。
みたいな。
…そういう事を、よく妄想してた。
木を隠すには森。

しかし如何せん、
そもそもの、森を生み出す能力が低いわたくしなのでした。
そんな理由でぽんぽん文章が書けますかいな。
一本たりとも書けんわ根性なしだから。


心理学者の先生が
「恨みに囚われ続けることは、執着だ」と言っていた。
こうやって文字に起こすと、手垢のついた文章みたいになっちゃうんだけど。
伝えようとしてる人が丁寧に発する言葉は、説得力あったなあ。
「そういう、恨みに囚われ続けてる人からは、距離をとったほうがいい」
だそうな。

え。

酷いことした人から距離をとれ、じゃなくて
酷いことされたのよーって恨み続けてる人から、距離をとれと言うの?

やばいこのままじゃ、わたしみんなに距離とられちゃうのか。


さもありなん。
今のわたしが過去の事実を冷静なつもりで綴ったとして、それはあくまでも、わたしの記憶でしかないもんね。
相手側の思惑とか事情とか、あるいは双方の思い違い、不運なズレとか、
そういうものが、本当は、絶対にある。
んで、
わたしはそれを、公正に正確に掘りおこして書きたくなんか、ないんですよ。
つまり、
わたし個人の「書きたい書いてしまいたい」という欲求は、
事実を明るみに出したい、のではなく
「あいつを糾弾したい」という欲求でしかないわけだ。
イエス。糾弾したい。しちゃいたい。


わたしも人の子、
過去には、「こんな酷いことされたのよー」みたいな話を、内輪で聞かせたことも そういえばありました。
聞いたひとは、「それは酷いね、大変だったね、気の毒に」と同情してくれる。
うん。嬉しかったよ。ずいぶん救われた。
けど一方で、
「あーわたし、ひとの悪口言ってるヒトだよなあ」って、恥ずかしくもあった。
「ひとの悪口言うヒトだって、思われちゃうよなあ」って。

何度 言葉を変え視点を変えして言い尽くそうとしても、うまく伝わっていないような。あの、話をした時の独特の感覚を覚えている。


たぶん、
わたしの怨念は収まらない。
何度愚痴を聞いてもらっても、気が済むのは一時的であって、
何度も何度も、悔しさは復活してきてしまう。

わたしが癒されないなら、
話を聞いてくれた人は、無駄に嫌な話を聞かされただけになってしまうんじゃないかしら。
無限に生み出される毒を、お裾分けされたような。

そりゃ、距離とりたいわな…



憎しみは、消えない。

そこはもう、しょうがない。

ただもう、文章にするのは諦めようかな、と。
ふと、今日、
ほんとに今日、
突然そう思ったんだった。

もういいんじゃないか。そろそろ。



たぶんね。
「あいつは酷い!酷いことされた!」って大声で言ってしまいたいと
そう思い続けてたわたしは、ずっと、
「あたしは悪くない!悪いことしてない!」って、叫びたかったんだな。

かわいそうにな。


まあそれはそうと。
単純なほうの、怨念が乗らないほうの、文章とか漫画とかは、それは書き(描き)たいなと。
それは、思います。
もっと。たくさん。

たくさん、は、なかなか難しいけど!(志が低い!)


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