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タイムマシン短歌/もちはこび短歌(11)

文・写真●小野田光


 わたしが自分の脳内に記憶して、日々どこへでも持ち運んでいる一首を紹介する<もちはこび短歌>。今回は、歴史がたのしくなる歌を。

岩と岩の間に金を零しつつ桃の御殿のふたごの走り
藤本玲未 「かばん」2017年4月号

 わたしは大学で歴史学を専攻したのだけれど、歴史が好きな人たちってたいていは「すごく昔」に興味を持っていると思う。現代史を専門としたわたしのように自分が生まれる少し前の時代に惹かれる人は少ない。大学時代、まわりの歴史好きたちを見ていると、大昔を学ぶことで、「いま」という時からは感じることのできない何かに思いを巡らせることをたのしんでいた。現代史の世界はあまりにも簡単に想像ができてしまって彼らにはものたりないし、ロマンが見つからないように見えた。
 時代を超えて、会ったこともない先人たちが何百年も何千年も昔に生きていたことを感じる。このロマンを短歌で実現させる名手が藤本玲未さんだ。第一歌集『オーロラのお針子』(書肆侃侃房、2014年)を出版後、藤本さんは「かばん」誌上などにたびたび「歴史もの」ともいえる独創的な作品を発表している。
 掲出歌もそのうちの一首。この歌を思い出すたびに、わたしの脳裏にはなんとなくサディスティック・ミカ・バンドの「タイムマシンにおねがい」がよぎる。「好きな時代に行けるわ」なのである。
 この短歌、設定はいつの時代なのだろう。「桃の御殿」という響きから、ずっと昔、たとえば平安時代や室町時代を想起する。「岩」という渋さ漂う語の選択をはじめ、すべての要素が時間軸を過去へと引っ張っている。
 その一方で、この歌、ほんとうに昔のことなのだろうかとも思う。どこか現代的な匂いがしないだろうか。もちろん軽やかな口語を用いていることも、現代性を演出しているかもしれない。でも、わたしにはそれ以上に「ふたごの疾走感」がこの匂いに寄与しているように思える。下の句を見ると、「御殿」というどっしり構えた風情の語を置き、「の」でつなぎまくって、「ふたごの走り」という「動きのある体言止め」で締める。巧みだ。「桃の御殿をふたごが走る」ではないのだ。
 わたしは速さそれ自体が現代的だと言いたいのではない。この速さが日常と結びついていることに注目したい。いつの時代だって、おてんばたちが生活の中でごく当たり前に疾走してきたという想像は、藤本さんが自らの少女時代を通じて、現代を生きる中でつかんだ感覚に由来しているのではないか。この疾走感を、わたしたちは時代を超えた普遍性として認識するのだ。わたしたちは、自分たちが日常を生きる上で得た現代的感覚を用いて、生きたことがない時代の生活を想像する。そういったからくりを、この歌は見事に表している。
 現代史に目を向けたがるわたしには、むしろ大昔の歴史に普遍性を見つけ出す想像力が不足しているのかもしれない。いにしえの疾走感といえば、戦で馬が走ることを思い浮かべてしまう大学時代のわたしは、いつの世もおてんばが走り回ることに思い至らなかったのだ。そんなわたしに、短歌は「いま」発の完璧なタイムマシンになること教えてくれた一首。忘れずに持ち運んでいる。

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