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写真の余白と短歌

文・写真●小野田光

 先日発売になった短歌ムック「ねむらない樹」vоl.2(書肆侃侃房)に、写真作品で参加させていただいた。「二二野歌(にいにいのうた)」というコーナーで、わたしの写真から、歌人の谷川電話さんと小原奈実さんのお二人がすばらしい短歌を作ってくださり、さらにイラストレーターとしても活躍される東直子さんが、力のあるイラストを描き加えてくださった。とてもオリジナリティのあるコラボレーション作品になったと思う。
 しかし、この仕事をオファーされたとき、実は少し不安だった。わたしは短歌も作るし、写真も撮る。どちらの表現方法もまず「それのみで成り立つ」ということを常に念頭に置く。短歌なら一首で、写真なら一枚で表現が完結することが望ましい。要するにそれが作品なのだ。
 それだけに、よくある詩歌と写真のコラボレーションは、正直に言って、わたしにはピンとこないことが多かった。お互いが作品として主張していて、良さを消し合っている場合。写真が添え物として無個性となり、フリー素材のようになってしまっている場合。はたまたその逆(詩歌のほうが個性を消している場合は、そう多くはないように感じる)。絶対にそれぞれを単体で見たほうが面白いのに・・・
 こうなるくらいなら、やらないほうがいい。短歌作者としても、写真作者としても、そうも思っていた。
 でも、前例に従う必要はない。何か違ったコラボレーションの仕方はあるはずだ。サンプル撮影を繰り返し、短歌を作る側の気持ち、写真を撮る側の気持ちを交互に行き来しつつ考えていたら、一ヶ月ほどで結論が出た。
 いわゆる解釈の「余白」を残した写真作品に仕上げれば、自然と短歌がその余白を埋めてくれるはずだ。
 わたしが歌人として、他人の写真に短歌をのせるとしたら、写真家が撮り切れていない余白の部分を探して、そこを歌で表現したいと思うだろう。谷川さんと小原さんがそう思うかは別として、自分の個性は自然と出しつつも、どこか手放したような作品を撮って提示したいという気持ちになった。踏ん切りがついたのだ。
 こうして、わたしは、余白のある心で、撮影のために街へ出かけた。相棒である二台の一眼レフカメラは除湿庫にしまい、iPhоne8だけを持って。わたしのiPhоneには特別な撮影用アプリも入っているが、それらも一切使わずに、オリジナルのiPhоneのカメラアプリだけで撮ることに決めた。写真の仕事でいつも一緒の一眼レフで撮影すると、やっぱり自然と「一枚で完結させよう」と思ってしまう気がした。結果として、肩の力を抜いて、たのしく二つのカットを撮ることができた。
 今思うと、「二二野歌」の企画者である東さんは、そんな理想は端からわかっていらしたに違いない。言うまでもなく、最初から短歌と写真の新しいコラボの成功イメージがあったのだろう。だからこそ、写真の物理的な余白にイラストを描き入れてコラージュするという発想が、自然と出てきたのだと思う。黙ってそういう世界に導いてくださったのかもしれない。
 この企画は、わたしの写真人生の中でも、ある転機になった。何年か後にそう思う日が来るような予感がしている。

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