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北京オリンピックが始まったけど

 北京オリンピックが始まった。予想していた事ではあるが、全く興味が持てない。

 前置きしておくけど僕はスポーツのテレビ観戦が好きだ。ヨーロッパサッカー、テニスのグランドスラム、ワールドカップわざわざ有料放送に加入して観戦している。

 もちろん、オリンピックもブラジル、平昌までは番組表で放送予定を調べて録画予約するほど関心があった。

 しかし、去年の東京オリンピック以降オリンピックというものに全く興味を失ってしまった。

 2013年、東京にオリンピックが来ると決まった時、多少の懸念(今東京でやる意義や、オリンピックの経済的な副作用等)はあったものの、やはり「その時自分は何歳になってるだろう」「子供たちはその時何年生になっているだろう」「何か観に行けるかな」などと期待も膨らませてしまう自分もいた。

 しかし、去年新型コロナウィルス感染拡大中に強行される(捉え方によっては感染拡大そのものを引き起こしたともいえる)オリンピックというものの実情を見てしまった(というか感じてしまった)事により、全く興味がなくなってしまった。

 「音楽とスポーツは国境を超える」そう思っていた僕にとって、それまではオリンピックというのは武器を持たず、政治や経済の思惑から離れて威嚇や恫喝なく世界中の人々が交流し、武装していない世界中の人(アスリートという特殊な人だという見方もあるが)の素顔が見える、人類にとって大切な平和の祭典だと思っていた。

 だから当然、そこで重要視されるのは「平和」であり「公正」であり「人間(生命や健康)」であると思っていた。100年に一度レベルの新型ウィルスの世界的パンデミックの中でオリンピックが行われるはず等ないと思っていたし、それが何年かかろうとパンデミックが収束するまでオリンピックは開かれないと思っていた。

 しかし、そうではなかった。東京オリンピックは強行された。経緯の詳細は省く(説明しきれない)けど、結局オリンピックはIOCという合法的な「経済ヤクザ」まがいの人たち(とそれに群がる「越後屋」的な人々)が行う、世界最大の「ドサ回り興行」のようなものであると思うようになった。

 もちろん僕もいい年した大人だ。これだけの規模の世界的興行であればそれこには「キレイ」なだけでは済まされない、いろいろな「大人の事情」が今までも絡んでいたんだろうことは推測していた。しかし、これほどまでとは思わなかった。そして、今回ほどそれが明らかになった事はなかったのではないかと思う。僕は今やオリンピックが「人類への貢献」どころか「人類の抱えた様々な矛盾の縮図のような害悪でしかないのではないか」という疑問さえ感じるようになった。

 しかし、そう感じたのは僕だけではないはずだ。多くの人が去年、多かれ少なかれその事に気が付いたと思う。だから、僕は他の人たち(選手や観客)の中でもかなりの割合で「覚めて」しまう人たちが出ると思っていた。

 しかし、フタを開けてみるといつもの通り「熱狂」「感動」「歓喜」が連呼された。違和感を感じた人はそれほど多くなかった。正直観てて吐き気がした。ちなみに僕は去年東京オリンピックの中継を1分も観なかった(「1秒」としなかったのはチャンネルを切り替えてる間に見えてしまう部分があったからだ)ので観てて吐き気をもよおしたのはニュース番組の中のスポーツコーナーでの話だ。

 間違っているかもしれないが、参加している選手はそういったオリンピックの負の側面を薄々感じながらも自分の夢の実現のため(冷たく言えば自己都合ではある)に見えないフリをしているとしか考えられない。逆に「薄々」も感じられないとしたらそれはそれでかなり「おめでたい」か「鈍感」であると言わざるを得ない。

 観ている方も同様だ。去年オリンピック関連のニュースを見ていれば誰もが「何か」を感じたはずだ。しかしイザ始まってしまえば、そういった事に目をつぶって(忘れてしまったのではないはず)感じないフリを決め込んでいるとしか考えられない。

 参加する選手と観客をさっき言った「経済ヤクザのドサ回り」に例えるなら、「ヤクザ主催に薄々感づきながら公演する歌手」と「ヤクザ主催のパーティだと気が付きながら歌手見たさに参加するお客」という構図になるだろうか。どちらにしても公式に「反社会的勢力主催」と認められているわけではないから、何か咎められたら「知らなかった」で乗り切ろうとしているような心の動きをする人たちだ。

 「面倒な事を考える事を放棄する事は奴隷の始まりだ。」どこかで誰かが言ってた言葉が頭をよぎる。いま世界で進行している「独裁政権」「軍事クーデター政権」の台頭への有効な対応ができないのも、こういった心の動きと根が原因じゃないのかと思えなくもない。

 まぁそうは言っていながら、次回のオリンピックは、自国開催じゃなければ、時間が経てば、こういった気持ちも薄らいでいくのかもしれないと思っていた。北京オリンピックの頃には少しは興味が湧くのかもしれないとも思っていた。しかし(夏のオリンピックから半年ちょっとしか経っていないというのもあるとは思うが)、全く気持ちが変わらなかった。モヤモヤした気持ちはなくならなかった。こんな気持ちを持ったままチャンネルを合わせる事は難しい。というワケで今回も閉会まで中継を見る事はないだろう。

 2024年のパリオリンピックではどうだろう、もちろん今は分からない。観られるようになる事が「良い」事なのだろうか、もし観られるようになったら、それは「喜ぶべき事」なのか、それも全く分からない。

 オリンピックは今のような運営体制ならばなくなっても僕は構わない。もはやオリンピックはアスリートが夢の到達点として目指す価値のある大会とも思えないし、オリンピックの金メダルは僕にとってはそれほど価値のあるものでもなくなった。

 大した推敲もなく書いてしまったので、いろいろとおかしなところもあるかもしれないけど、自分の気持ちを整理するために書いたものなのでそれ以上の意味はない。


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