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torinomaruyaki

先週末、パートナーのはじちゃん(ギター)が名古屋に行っていた。アイルランド伝統音楽を愛してやまない熱狂的なファンたちが全国から一挙に集まって、2日間に渡り「プロもアマも関係ない、とにかく我らはアイルランド音楽を愛してるんだ、演奏しちゃいましょう」という採算度外視なイベント Music Weekend に参加するため。
7年もアイルランドに住んで、本場の素晴らしいミュージシャンに囲まれて20代の大半を過ごしてきた彼は、いっしょに暮らしていて半分アイルランド人のようで、事実コミュニケーションも英語のほうが円滑にとれているし、力が抜けている印象がある。

年始に帰国してからは(驚いた、彼はまだ帰国して1年も経っていないんだった)すごくありがたいことに出演依頼を受けて演奏させていただくという機会に恵まれていたけれど、アイルランドの、あの仕事帰りのおじさんたちが酒場に集まって、プロ以上の腕前でぶあああっと演奏してしまう瞬間の感動や、その自然さ、人生!という感覚、からは少し離れて生きていたみたい。
「ただいま」と玄関のドアを開けたとたん、荷物を放り出して廊下をダッシュし、わたしを抱きしめると、かおりちゃん!楽しかった!!!と叫んで、今までに見たことがないようなフレッシュな表情でこちらを見つめ、お茶を淹れながら夜遅くまで、興奮した様子で名古屋で会った人たちや話したことを伝えてくれた。

この世には、いろんなエネルギーが存在する。
でも「好き」に勝るエネルギーはないとわたしは思う。
理屈も計算も損得も、そして自我すら消える。純度100%なのだ。
好きなことをする人は、とにかく「無敵」なのである。
だから、世界平和の種は、いつだってここにある。
争いようがなくなるんだよ。自分に敵がいなくなったら。

わたしはお返しに、はじちゃんがいなかったとき、急に「鶏の丸焼き」を食べたくて食べたくて、たまらなくなったんだ!と話をした。普段はあまり「肉を食べたい」と切望することはない。でも彼が名古屋にいて、Facebookにアップしていた何気ない写真を見てしまったときに、隣にいた友達が、鶏の丸焼きを食べていたの、それでめっちゃくちゃ、食べたくなったんだよ。

あのね、わたしは、何かと何かが触れ合って、予定していた人生がまるで今「変わっていく」瞬間が大好きだ。あのとき、今晩のごはんは家にいて、納豆と紫蘇きゅうりとたまごやきとごはんで簡単に食べようと思っていたのに、どうしても鶏の丸焼きを食べたくなって、家を飛び出して、初めて入る近所の居酒屋さん(ちょこり、というお店だった)で、鶏の丸焼きと、サラダとジンジャエールだけ頼んで、うーん!おいしい!って目をぎゅっとつむって、今日を生きたって噛みしめる、それがなんと1枚の写真によって想起させられ、現実が動いてしまっただなんて、ものすごいことじゃないか。と感動する瞬間が、最高にうれしい。

もしあの時、わたしが見たものが、ビールの宣伝か何かで「鶏の丸焼き」をおいし「そうに」食べているシーンだったら。
わたしは、あんなに突き動かされなかっただろうと思う。
わたしが見たのは、ちょっと暗くてそんなに画質の良くない、鶏肉のジューシーさを伝えるためにカメラ近めで撮ってるわけでもない、ましてや、おいしそうに食べてることを伝えたい顔でもない、今となってはどんな顔だったか誰だったかもよく思い出せない(お友達よ、ごめん)そんな本当に何でもない写真だったんだけど、わたしはそこに写っていた「何でもない真実」にぐっと心を動かされた。ああ、ここに答えがあった、と気づいたのだ。

そういうわけで、わたしは月に二度、新月と満月に寄せて配信していた、ファンの人たちに向けてすごく大切に贈っていたメルマガを、もうやめようと思った。
こう感じてほしいとか、繋がりたいとか、知ってほしいとか、考えること自体があざとく感じられて、わたしはこれまでの自分の「正しい」と思って守ってきた従来のやり方に、飽きた。そう。ただ、飽きたのだ。

それにしても、どんなに忙しいときも「これだけは譲れない!」と必死になって配信し続けてきたメルマガを、あっさりとやめさせてしまうのだから、鳥の丸焼きという食べものは、スゴイ。

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