決断力がありすぎる

人生は選択の連続だ。
時間とお金は有限で、全てを手に入れることはできない。
例えば、レストランでお昼ご飯にハンバーグ定食を注文したら、オムライスを食べる機会は失うのだ。
私は選択する時にあまり悩まない。
いつかどこかで聞いた、「悩んでいる、という時は、本当は心の中で結論が出ていて、でもそこに踏み出すのを躊躇しているだけ」を信条にしているからだ。
もちろん、人生全く悩まないという意味では無い。
よく「あの時〇〇と言われたが嫌われているんだろうか」「あの時こうしていれはもっと良かったのではないか」などとくよくよしている。
ただ、AかBか、どっちか選んで!という場面では割とあっさり決めることができるし、決めたあとも後悔しない。

……はずなのだが。
人生で一つだけ、後悔はしていないけれども「あの時、もう片方の選択肢を選んでいたらどうなっていたんだろう」と思うことがある。
進学する大学だ。

※大学受験の話が続くので苦手な方はお戻りください。




端的に結論をまとめると、
私は大学受験の時に受験した全ての大学に合格した。
そして勿論その中からひとつに決めて進学して今に至るのだけど……
という話である。

私が大学進学にあたって家から出された条件は「家から通える範囲の国立大学」だった。
私立の高校に通っていたので大学はできるだけお金が安いところに行ってくれ、ということだった、まあわかる。
いくつかの近場(ではない、片道2時間以内)の国立大学に見学に行き、とても魅力的な学科に出会うことができた。
じゃあ受験勉強がんばろうね!……と言いたいところだが、ひとつ問題があった。
私はとてつもなく身体が弱い。
ほぼ毎日、頭痛腹痛吐き気目眩何かしらの体調不良と折り合いをつけながら生きている。
普通に風邪もよくひいていた(のちに扁桃を摘出したら喉風邪はほぼ無くなった、とても良かった)。
センター試験(現:共通テスト)を2日間、さらに二次試験の全日程を健康に受けられるのか……
自分も、家族も、担任も、誰も成績の心配ではなく病気の心配をしている謎の状況。
ということで浪人はしたくないし、滑り止めとしても、私立大学は何かしら受けようね、ということになった。

とりあえずMARCHからはひとつ受ける。
そしてその上で、早慶上智どれにする……?となったとき、私は受験科目だけを見て慶應義塾大学文学部を受けることにした。
慶應文学部の試験科目は英語、社会、小論文。
国立大学の二次試験で小論文があったため同時に対策ができること、英語が長文読解中心・紙の辞書持ち込み可という私に向いている形式だったことが決め手だった。
日本史は本当に本当に得意だったのでどの大学でもよかった。

結果、インフルエンザにもノロウイルスにもかかることなく、高校3年生の後半を毎日元気に過ごし、センター試験も模試よりうんといい点数を取り、全てに合格することができた。
私が私の担任だったら、とてつもなく誇らしいと思う。

……というところまではよかった。
慶應にはまあ受かるかもなとは思っていたが本当に合格すると驚いてしまうものではある。
実際、偏差値や知名度で比べたら圧倒的に慶應大学の方がいい。
親もなんだか良い気になって慶應だったら学費出してもまあいいかな、なんて言ってくる。
本当に困った、私はどこに進学すべきなんだ。
丸一日、受かった大学のパンフレットやHPを見比べて、うんうんうんうんうーーーーーん、と唸って…………
「んまあ、最初から行きたかった方がやりたいことやれそうだし、こっちにしよ!」
ということで私は慶應大学をお断りしたのだった。

第一志望の大学では、入学前から「なんとなくこの研究室入りたいな」と思っていたところに入れてもらえて、人間的にも素晴らしい先生の元で研究することができた。
卒業後も度々会って人生相談に載ってもらっている。
研究が面白くて大学院まで行ってどっぷり宗教のオタクになってしまった。
大学のサークルの友達とは今でも月1回以上会って、一緒に歌っている。
夫も大学の同級生だ。
愛すべき母校として今も大学の学祭には毎年行っている。

にも関わらず、どこかでふと、「あの時、慶應大学に行っていたら?」と思う瞬間がたまにある。
知名度抜群のあの大学に行っていたらもっと就職活動も楽だったんじゃないか、エリートコースまっしぐらだったんじゃないか、とか、なんとなく「なんかもっとこう良い人生があったのか?」とぼんやり思ってしまうのだ。
でもその度に、少人数指導の方が私は向いていた(研究室は私は学年一人だった)、家から通える範囲と言われたけど結果として遠くて一人暮らしになって得られたものがたくさんある、自分のやりたい学びができた、気の合う友人と出会えた、、、だから良かったでしょ、と思い直すと「まあそんな気もするな」と、ぼんやりした思いは消えていく。
でもまたどこかでぼんやりと思い出して、その度に否定して……
きっと一生ぼんやりと思って、その度に「いや、これでよかったんだ」と呟いて生きていくんだろうなと思っている。
ただ、私がそう思うのは慶應の社会的評価の高さによるもので、行ってないから中身を知る由もなく、それはそれでよろしくないな……とか、なんかつらつらとらまた思考がめぐる。

とりあえず時間が巻き戻せるなら「んまあ!」の思い切りのいい決断力で決めるなよ、一生がかかってるんだから、と自分に言いたい。
でもそう言い聞かせたとしてもきっと私は同じ選択をして、そして同じようにぼんやり「本当にこれでよかったのか」と思うんだろうな。
人生そんなもんだ。



おまけ
もし慶應文学部に行ってたら……と考える。
哲学、倫理学の教授はいても宗教を研究している人はいない。
ということは私は絶対に宗教学を専攻していないことになる。
私が大学院に行ったのは就職活動がうまくいかなかった半分なので、もし学歴パワーで就職できていたら大学院にも行っていない。
大学で合唱サークルを選んだのは家が遠くて(最初は実家から通って、後に諦めた)練習が早く終わるから。
ということは、そもそも音楽を続けずまったく違うサークルに入っている可能性もある。
そして今私を支えている全ての人間、夫と大学サークルで出会えた仲間は、私の周りにいない。

音楽も宗教も好きじゃない私って、それは私なのだろうか?
確かに私の名前で、18歳までは同じように育ったのに、進学先の選び方で私は私ではない何かになるのか?
それともどの選択肢を選んでもねじ曲がって音楽と宗教のオタクに帰結する運命なのか……
というか、私は私のアイデンティティの拠り所を「音楽(とそれに付随する仲間)と宗教研究」に置いているのか、というのが面白い。
私が青年期=大学・大学院時代に獲得した自己同一性が私を私たらしめているんだなあとエリクソンがチラついた。

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