見出し画像

「私」とアイデンティティを考える

前回まで心や意味、コミュニケーションや言葉について考えてきた。
今回は「私」である。

トップの画像は「みんなのフォトギャラリー」にあったドガのself portrait、自画像である。画家たちはこのように自分の姿を作品に残してきた。僕たちも自分を様々な形に残すことによって「私」を作っている。そんなことを考えてみたい。 

最近、中村桃子「『自分らしさ』と日本語」を読んだ。

社会言語学の知見からアイデンティティと「ことば」(著者はずっと平仮名で書いている)の関係について考察している。平易に書かれているし敬語や方言といった身近なトピックを扱っているので読みやすくオススメの本である。

この本の冒頭では、アイデンティティについて「本質主義」と「構築主義」の違いを説明している。
本質主義とは「アイデンティティをその人にあらかじめ備わっている属性のようにとらえて、人はそれぞれの属性にもとづいてコミュニケーションをするという考え方」(p.24)であり、構築主義は「アイデンティティを…人と関わり合うことでつくりあげる、つまり、「アイデンティティする」行為の結果だとみなす」(p.26)考え方である。
著者は構築主義的に考えていて、この後ジュディス・バトラーを引きながらアイデンティティが凝固して本質のような幻想をもつことや、平野啓一郎の「分人」論を引いて一人の人でも多様なアイデンティティが関与することを書いている。その後、構築主義的にアイデンティティを「名前」「敬語」「方言」「女ことば」といった具体的な視点に沿って考えて行くことになる。(これら具体的な考察はとても面白いがここではこれ以上深堀りはしないので興味がある方は本をぜひ)

構築主義的な観点は、僕が以前書いた「生成型コミュニケーション」と重なるように思えた。

意味がどこか外部にあるのではなくコミュニケーションによってこそ生み出される。その意味ではこれは構築主義的な考え方である。そして前掲書ではこの生成が反復することで凝固してまるでそれが本質であるかのような「幻想」を抱くに至ると言っている。
僕はその幻想性を不安としてとらえ、それを「モノ」としての言葉の力を借りることによって解消しようとする一つの試みを示した。

僕がこんなことを書き継いできたのは、この「本質主義vs構築主義」という対立に違和感があるからだ。もっと言えば、コミュニケーションによる反復こそが幻想としての本質(=意味)を構築しているのだ、ということに反対して、本質を救い出してみたいと思っているのだ。

さて、あまり大風呂敷を広げていてもしょうがないので、ではどうするのか進めてみよう。
生成型のコミュニケーションにおいては、発信者も受信者も共に言葉や意味に関わっている。
  A→→→言葉(意味)←←←B
したがって言葉がアイデンティティと関わる場合、その言葉の使用はAにもBにも影響することになる。しかし、その生成した言葉=意味がどのような影響をA、Bに与えるかはそれぞれによって違う。
  A←(影響a)→言葉(意味)←(影響b)→B
生成した意味がA、Bそれぞれにフィードバックされてそれぞれのアイデンティティに別々の影響を及ぼす。
これらの影響は各人がもつ背景(「『自分らしさ』と日本語」の中では社会的意味や言語イデオロギーといったものに関わるだろう)による。しかも、個人の中でもアイデンティティが一つではないのだとすると、そのそれぞれが違った影響を受けることになる。
    ←(影響a)→
  A←(影響a´)→言葉(意味)
    ←(影響a“)→

こうなるとアイデンティティはどんどん複雑化していく。どの影響を受け取るべきなのか「選択」をしなくてはならなくなる。そのために役に立つのは「比較」することである。
AとBとで比較してもよい。お互いの意味を確かめ合うことで合意に至ることもあるだろう。
aとa´で比較してもよい。自分にとってどれが適当な影響なのか見極められることもあるだろう。
また、過去にAとC、D、E…でなされ生成した意味を持ち込んでもよい。過去の反復は現在のBとのコミュニケーションの力となるだろう。
ただ、この比較と選択は、まったく自由になされる訳ではない。今まさにAとBとの間でコミュニケーションによって意味が生成している。それを度外視して関係ない新たな意味を持ち込んだところでコミュニケーションが成立しなくなるだけである。比較し選択する、しかも「正しい」比較選択をしようと思えば、今まさに意味を生成している現場である当のコミュニケーションにコミットしなければならない。
ここに構築と本質の交差点がある。
目の前の生成コミュニケーションにおいてしか、構築はなされない(西洋哲学で「眼前性」が注目されるのはここにおいてである)。構築され生成した「意味」は、そのコミュニケーションと強く結びついている。それが繰り返され反復して凝固するから本質化するのではなく、意味として生成したその時点でその本質が姿を現しているのだ。
確かに本質をその生成した意味の本質として捉えるためにはその生成コミュニケーションの現場から一歩引いて見てみる必要がある。その意味では本質には反復が(何回見ても聞いても触っても、すなわち他の生成場面でもその意味が生成するという形で)必要である。しかし、意味やコミュニケーションと切り離された「幻想」として本質がある訳ではない。

生成型コミュニケーションを考えると、発信者も受信者も(AもBも)先にあるアイデンティティをわかっている訳ではない。逆に、そこで生成した意味を反射するようにして自らのアイデンティティを発見することになる。
生成した意味が、自らが何者であったかを教えてくれるのだ。
ただしこれは、「何者であったか」ということなので、確かにAもBもコミュニケーションの現場にアイデンティティを持ち込んでいる。自らコミュニケーションに持ち込んだアイデンティティという自分に関する意味もまたコミュニケーションによって生成してくる。
これは構築主義的アイデンティティ観でいうところの「行為の結果としてのアイデンティティ」というのともちょっと違う。結果が出る前に、僕たちは確かにそのアイデンティティを自分のものとして持っているのだが、残念ながらその行為の(僕の言い方ではコミュニケーションの)真っただ中にあってはそれを捕まえることができないのだ。
僕たちは本質主義的なアイデンティティを構築主義的に結果としてしか知ることができない。まるで実験で確かめられまた再現性が認められる科学的事実のように。

アイデンティティがそのようなものであるとしたら、そのアイデンティティの持ち主としての「私」とは何だろうか。
「本質主義的に持っているものを構築主義的に発見する」という二重のあり方を可能にするものこそが「私」である。先述のように「何者であったか」という所に注目すればそれは遅れてくることを可能にする「時間」であるし、眼前のコミュニケーションの現場という所に注目すれば「空間」である。
この時間と空間が交差するところ、そこで意味とその反射としてのアイデンティティが生成するところ、それがもつ二重性こそが本質と構築の二重化を可能にする。それこそが「私」ということなのではないだろうか。

画家たちは自らを絵に描くことによってその二重の二重性、あるいは二重が無限の入れ子構造フラクタルをなしていることを僕たちに見せてくれる。
画家たちの自画像には、確かに「私」が描かれている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?