物語を創作する材料としての倫理


前回の【論理勘】に続いて【倫理感】について。
欲望・感情・無明をキャラクター論として説明し、
喜怒哀楽→慈悲喜捨をストーリー論として説明する。


仏教は空の理論を実践して「やすらぎ」とか「落ち着き」の状態で世界に佇むことを目的とした技術体系に見える。空の理論とは物語を滅尽することを目的とする物語だ。宇宙が生まれた理由、生物が生まれた理由、知性が生まれた理由、自分が自分であることの理由を串刺しにし終止符を打つこと。そのため物語の発生のメカニズムについても詳しい。

DNAが増殖と永続を求めていると仮定するなら、空の理論とは生の流れに逆らうゲームだ。当然、世の流れにも逆らうことになる。周囲からも自己からも批判が湧き出る。例えば・・・

世の中に蔓延する苦しみや悪行への取り組みを放り捨てて、自分だけ安らいだり、落ち着いて意味あんの?ズルくない?遊んでんじゃねぇ!人と交わり、動員し、世の中を積極的に改善していくべきだろ?

・・・・・・

これは昔にもいうことであり、
いまに始まることでもない。

「 沈黙しているものも非難され、
多く語るものも非難され、
少しく語るものも非難される。」

世に非難されないものはない。

ブッダ


仏教徒は空の理論を実践する環境を保つために、自分たちが施しに値する集団であることをアピールしなくてはいけない。「感情・欲望・無明」を揺り動かし、増殖させ、社会を永続させようとする「市場」にアピールしなくてはいけない。空の理論の実践においては敵となる「感情・欲望・無明」について、市場が「あいつらは皆殺しにしたほうがいい」なんて反応を引き起こさない形で説明しなくてはいけない。


貪(とん=欲望)・瞋(しん=感情)・癡(ち=無明


仏教において三毒と呼ばれる DNA の働きだ。何億年もかけて生命が培ってきた生存戦略の結晶体だ。この働きによって、ぼくたち人間は増殖し、文明や文化を築き、肉食獣やウィルスが蔓延する自然界に人間界という安全な砦を確保できた。しかし、この働きは霊長類とかホモ・サピエンス(賢い者)を自称するには、少々ヤンチャすぎる。

欲望が強すぎて選択を誤ったり、感情が高ぶり過ぎて場を破壊する事例は多くの人が知っている。しかし、この世では「感情・欲望・無明」を増大させる仕組みが至る所で働いている。

そもそも欲望がないと生きていけないし、哲学することもできない。感情がないと楽しくないし、幸せにもなれない。バカをやるのは気が晴れるし、バカになれないと楽しめない場所もたくさんあるでしょ?

まったく、その通りだ!

この「感情・欲望・無明」の三毒は西遊記のようだ。感情が孫悟空で、欲望が猪八戒だとしたら、無明は沙悟浄だ。この三毒が一行に何度も何度も危機を呼び込み、この三毒が三蔵法師を天竺に導く。

この三毒の中で僕のイチオシは沙悟浄こと「無明」だ。地味だし、悟空や猪八戒に比べると地味だが、本当は感情よりも欲望よりも一回り強く一回り厄介だ。キャラとしては意識高い系であり、「好敵手」と書いて「とも」と読む、てきな奴だ。

例えば、自分の愚かさに嫌気がさして師匠を求めたとする。
賢くなりたい!賢者になりたい!賢者に会いたい!
・・・しかし、ここで問題発生だ。自分が愚かなのに会った人が賢者か愚者か判断できるのだろうか?

愚者は賢者に見える愚者を賢者だと感じるから愚者なのではないか?
同時に自分を賢者だと認識するのは愚かさの始まりではないか?

この「無明」という宿敵は、ぼくたち人間の認識力、思考力の限界そのものであり、同時に限界へと誘う導師でもある。『指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)』はサウロンの指輪を火口に捨てるのが目的であるが、その旅路を幾度も助けるのがサウロンの指輪の透明になれる魔法。この魔法は同時に装備者の魂を蝕み、他者との絆を壊していく。この指輪の性質は火口への案内人であるゴラムの性質でもある。


喜怒哀楽 → 慈悲喜捨


次に感情の説明をする。喜怒哀楽は個人の感情。慈悲喜捨は他者の感情との関わり。物語を次へ次へと読ませるためには、主人公とその仲間たちの感情の機微を細かく描き、関係性が深まったり、裏切られたりする様を見せるのが、次回に繋げるのが効果的だ。


・よろこぶ
・いかる
・かなしむ
・たのしむ

・人を喜ばせる
・人の苦しみを取り除く
・人の喜びを我が事のように喜ぶ
・人と自分の区別をなくす


喜怒哀楽は少年漫画的、慈悲喜捨は少女漫画的であり、より大人だ。

ここで気になるのが、それぞれの四文字熟語の最後の文字「楽」「捨」だ。前の三文字とは味が異なる。前の三文字がホットであり、エモく、物語的だとすれば、四文字目はクールで客観的なのだ。物語から離れている。
僕なりに解釈すれば、

喜び、怒り、哀しむキャラクターを楽しんでいる読者。
慈しみ、悲しみ、喜ぶキャラクーの群像を自我を捨てて作っている作家。

という感じか。この感覚は僕自身の勝手な解釈なのだが、このクールさが倫理を論理へとつなぐ回路のように感じる。

 【世界観】については次に書く。



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