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#1.青梅と将門の誓い ~天寧寺・勝沼城址~

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。

『平家物語』第一巻「祇園精舎」

日本人ならば誰もが知っている『平家物語』のはじまり。子どもの頃、学校で習った時にはあまりよくわからなかったけれど、大人になって改めて読んでみると、この短い文章の中で見事に世の真理を表している。なんとまあ美しい響きなのだろう・・・と感動する。

――平氏と源氏。大昔から、日本を二分してきた二大派閥。もともとどちらも天皇家にルーツを持つ由緒ある家系であり、武家の名門。平氏は西国に、源氏は東国に権力を築き、両者は長きに渡り争いを続けていた。そして、かの有名な壇ノ浦の戦いで決着がつき、平家は滅亡に追いやられることとなった・・・。

それは、現代では歴史としてとっくのとうに“終わった”ことのように思える。しかし、実際には『平氏』と『源氏』の戦いは今も尚続いているという。
「平氏と源氏には家系や血筋的な問題はもちろんだけど、霊的なものもあるんですよ。」
わたしはそう聞いた。問題というものは目に見えるわかりやすいものだけじゃない。過去・・・あの時に生じた両者の数え切れないほどのカルマは、いい意味でも悪い意味でも現代に引き継がれてしまっているのではないだろうか。

わたしが知る、とある平家一族の末裔の方の話。その一族は、昔、戦争の時に多くの人を殺めたという。苦しめてしまった人々の恨み辛み・・・要するにその時から背負ったカルマによって、今の一族には跡継ぎがなく、やがて滅びることになるだろうと自ら話をされていた。わたしもできる限り、その一族に関するカルマの昇華と浄化をお手伝いさせていただいた。確かに・・・“何が”とは言わないけど底知れぬほど深いし、がんじらめになったカルマの鎖はそう簡単には解けないのだと痛感した。

わたしが平家・・・というか、主に平将門公に縁を持つようになったのは、東京は大手町にある『将門の首塚』に行ってからだ。その後に将門公の夢を見るようになり、それから茨城県の坂東市や埼玉県の秩父、千葉県の九十九里など、将門公に関連する場所をいくつか訪れている。
源氏に関連する場所には全く縁がないのかと言えば、別にそういうわけでもない。これまで呼ばれて訪れた場所には源氏ゆかりの地ももちろんあった。そんな中でもやはり、平将門公に対して特別なものを感じるこの感覚は間違っていないと思う。どうしてなのか、それはまだわたし自身はっきりとはわかっていない。

一番簡単な理由としては血筋なのだと思うけど、わたしの父方の家系のことは離婚しているからよくわからないし、母方の家系は・・・実は、わたしの曾お祖母さんと曾お祖父さんが浅草の大きなヤ〇ザ一家に二人で養子入りしたとかで、もともとの正当な家系のことがよくわからなくなっている。だから平氏との関係もわからないんだよね。血筋でないとしたら、霊的な何か繋がりがあるのかも?しれない。

以前、源氏の血を継ぐ方とお話した時に「はじめてお会いした時に、マオさんは平家っぽいなって思いました。」と言われたことがある。
ええっと・・・平家っぽいとは?どういうこと??って聞き返したと思うんだけど、どうやらわたしの思考とか持ち物の色のこと(平氏は赤色の旗を掲げていた)でそう感じたらしい。ちなみにその方には、とても強い先祖や家系の守護がついていると感じる。

それで、今回はだ。東京の多摩地域の北西、奥多摩の少し手前に位置する青梅市にある将門公関連の場所を訪れることになりました。とある知人の方に、「今度、将門公に関連する場所に行く時には連れて行って欲しい」と言われていたので、桜も満開の時期だったしお花見も兼ねて一緒に行ってきました♪
本当は梅の花を見に行こうと思ってたんだけど、お引越しでバタバタしてたら過ぎちゃった・・・!

天寧寺

東京都青梅市根ヶ布。曹洞宗梅華林高峯山天寧寺御本山は永平寺です。天寧寺は高峯山と号し、曹洞宗永平寺に属する関東地区の名刹である。寺の創立は寺伝によれば、天慶年間(九三八~九四六)に平将門の開創であって、高峯寺と称し、顕密兼修道場であった。其後兵火に罹り、堂宇は焼き尽され廃寺となったが、文亀年間(一五〇一~〇四)、此地の領主将門の後胤三田弾正平政宗の帰依によって、曹洞宗甲斐国中山広厳院(寛正元年(一四六〇)古屋対馬守の開基)の末寺として伽藍が再興され(第一期)、開山第一世として、広厳院第二世一華文英和尚が招請された。以来礼学盛んにして曹洞の宗風を宣揚し、参学の徒が四方より集まった。当時後柏原天皇は、当寺開山和尚に深く帰依し、永正三年(一五〇六)、勅して紫衣ならび神獄通竜禅師の号を賜った。また、詔勅して天下の安寧と改称して山を高峯と号した。

天寧寺 公式サイト

平将門ゆかりの地を巡る~青梅編~のスタートは、東青梅駅から徒歩20分の所にあるこちらの天寧寺です。後ほど詳しく書きますが、そもそもこの『青梅おうめ』という名前は将門公の伝説に由来します。
惣門を抜けると静かな参道があり、素敵な雰囲気のお庭へと続いていました。桜が綺麗だわ~。

中雀門

正面奥に見えるのが法堂です。釈迦如来が祀られています。もともとこの地には、平将門が創建した真言宗の高峯寺がありましたが、焼き討ちに遭い廃寺となった後に、三田氏によって曹洞宗 天寧寺が創建されました。三田氏は将門の子孫と称しています。

御朱印

この日、法堂はしーんと静まり返っていたのですが・・・中に入り声をかけてみると、お若い僧侶の方が出て来られて御朱印を書いてくださいました。
天寧寺の法堂の裏手には、霞川・入間川・荒川の源流となる霞ヶ池と庭園があります。えっ、荒川??この池からわたしの故郷まで流れて行くってことか、すごいなぁ!

勝沼城跡

東青梅駅まで戻る前に、もう一箇所寄りたい場所がありました。
天寧寺から光明寺まで歩いてお墓を通り抜け、小高い山の上にある勝沼城跡へ。今はもう城らしきものは何もありませんが、こちらは天寧寺を創建した三田氏(将門の子孫)の居城であったと言われています。
三田氏は戦国時代には近隣地域に勢力を伸ばし、武蔵国の有力な国人領主となっていましたが、1561年から1563年頃に小田原城を本拠地とする戦国大名の北条氏によって滅ぼされました。三田氏滅亡後は北条氏一族の北条氏照の管轄下におかれました。

去年の夏の暑い時期だよ。八王子城址を登って、その時に何故だか北条氏照のお墓にもお参りしたんだよね。・・・はい、こうやってピースが繋がってくる訳ですねー。実に面白い。

何やらふしぎな植物を見つけた。形状はウツボカズラみたいだけど、色が毒々しい。

真下はお墓なんだけれども、見晴らしのよい場所。

途中、近くにある師岡神社にも参拝しました。師岡神社は、宝蔵山光明寺創建に際して寺門守護として嘉元年間(1305-1308)に熊野三社大権現と称して勧請したといい、明治2年に師岡神社と改称、明治6年村社に列格したといいます。

境内には立派なシイの木が。市内で二番目に大きいそうです。一般にシイは、関東から西の地方に自生し、防火・防風林として植えられる。材は建築、器具、薪炭材にする他、シイタケ栽培の原木としても使われる。実は、あのどんぐり。食べられる。めちゃくちゃ人のために役立ってくれるとってもありがたい木だよね。

勝沼城跡をあとにして、東青梅駅からお隣の青梅駅まで電車で移動し、次は『青梅』の名の由来となった場所へ!

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