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天照大神と伊勢神宮 (12)       岡田精司氏が説く伊勢神宮と天照大神①

次に日本史学者の岡田精司氏が著した『古代王権の祭祀と神話』に収録された「伊勢神宮の起源」と「古代王権と太陽神」をもとに氏の説を考えたいと思います。様々な資料や事実に基づく極めて実証的かつ論理的な論考となっています。適宜引用しながら見ていきます。
 
伊勢神宮には荒木田氏を神官とする内宮と度会氏を神官とする外宮があり、『日本書紀』や延暦年間に編纂された『皇大神宮儀式帳』には垂仁天皇25年の内宮鎮座の記事が見られ、一方の外宮は同じく延暦年間の『止由気宮儀式帳』に、雄略天皇のときに天照大神の御饌都神(みけつかみ)として丹波国から豊受大神を迎えたとする記事があります。これが事実だとすると、伊勢神宮には祭典や奉幣は必ず外宮を先にするという外宮先祭の慣習があること、外宮神域内に巨大な末期古墳があること、外宮と度会神主一族との間には密接な結びつきがあるが内宮と荒木田氏との間にはそれが見られない、などの不可解なことがあると指摘します。
 
さらに、伊勢神宮創建前は度会県主的な土豪(伊勢地方の特色である県造)であった度会氏が、大化の改新以降に神三郡(度会・多気・飯野)の国造に任じられたこと、中期以前の古墳が少ない中でも5世紀頃には画文帯神獣鏡を伴う神前山古墳などを築いた権力者が生まれ、これを度会県造に擬することは可能とし、さらに後期に入ると先述の通り、外宮神域にある高倉山山頂に巨大石室を持つ高倉山古墳が築かれることなどは、神宮が伊勢に遷されて以降、度会氏が神宮をバックに発展したことを示しているとします。また、外宮一帯には国津神の社や県神社のほか、度会一族の祭場が高倉山を取り巻くように散在するとともに、高倉山に住む国津神が度会氏の祖神である天日別命を迎えたという伝説があることも指摘します。
 
これらのことから著者は、外宮は皇大神宮祭神の神託によって他処から移してきたものではなく、度会氏の祖先神の聖地である高倉山を中心にして、国造一族によって斎かれてきたものとします。
 
また、垂仁朝の内宮鎮座以来の禰宜であったと主張する荒木田氏の系譜と、天武期に禰宜制度が制定されるまで二宮大神主に任命され、さらに両宮とも初代禰宜を務めたと主張する度会氏の系譜を比較し、新興の荒木田氏は旧族の度会氏と肩を並べられる家柄ではないなどの理由から、度会氏の系譜のほうに妥当性を認めています。但しこれに対しては、両者が両宮の禰宜を分掌したことで一致する持統朝より以前の主張は別の客観的傍証がない限り、いずれも虚構的述作とみてよい、とする建築史家の林一馬氏の批判があります。
 
さらに先述の通り、外宮の前身が度会氏と密接な関係をもつ存在だとすれば、その祭神は度会氏の祖神または守護神である天日別命であり、外宮の摂・末社には天日別命の妃や子などを祀る神社はあるが、天日別命を祀る社がないことがその裏づけになるとします。そして天日別命はその名に「日」を持つことから太陽神であるとした上で、度会郡の高倉山の南に「陽田(ヒナタ)」という郷があったことなどから、度会地方は太陽信仰の聖地として畿内周辺に知られていたに違いないとします。
 
伊勢地方は大和盆地から見ると東方の山脈の彼方の陸地の果てにあって海から太陽が昇る国であり、畿内周辺で海の上に日の出を望めるのは伊勢・志摩だけで、大和で古くから太陽信仰が行われていれば、太陽信仰の聖地として神聖視されていたに違いないとし、伊勢の度会が皇大神宮の鎮座地として選ばれたのは太陽神の聖地としての伝統が重要な条件となった、と指摘します。直木説の考察の最後に書いたように、これに対しては全く同感です。
 
さて、著者は伊勢神宮の成立時期について、『日本書紀』垂仁天皇25年の天照大神鎮座に関する記事にある「然後、隨神誨、取丁巳年冬十月甲子、遷于伊勢国渡遇宮(そのあと、神の教えの通りに、丁巳年の冬10月に伊勢国の渡遇宮に遷った)」という一文の「丁巳年」を手がかりとして、雄略朝の西暦477年であるとします。『日本書紀』雄略天皇紀に伊勢に関する伝承が集中すること、伊勢地方は4世紀までに大和政権の支配下に入っていたこと、5世紀後半の朝鮮半島情勢悪化に伴う東国進出計画によって伊勢支配を強化したこと、雄略朝の栲幡皇女(稚足姫皇女)以降の斎王任命が確実視されること、『日本書紀』にある渡遇宮は内宮・外宮分離前の呼称と考えれば神宮関係の諸書が外宮鎮座を「丁巳年」としていることと一致すること、などについて根拠を示しながら丁巳年=477年の妥当性を説き、大王家の守護霊の祭場を伊勢に遷したのが477年であると主張します。ただ、これに対しては「丁巳年」は537年(宣化2年)、あるいは657年(斉明3年)などとする説が提唱されています。
 
ではなぜ、大王家は守護霊を伊勢に移したのか。大和政権に参加していた諸豪族は大王家と同様にそれぞれに自己の氏の守護霊を奉じていましたが、様々な情勢変化の中、大王家は専制体制を確立する必要から、大王の権威の根源である守護霊、太陽の精霊を諸豪族の守護霊の上に位置づけて、国家的祭祀の対象に発展させようとしました。また同時に、朝鮮半島支配のゆきづまりから、東国進出へと国家政策を転換することを迫られたこともあり、太陽神の聖地である伊勢の度会に新しい祭祀場を移すことを決定したのです。
 
(つづく)


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