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41「卑弥呼」to「柳田國男翁」to「邪馬台国」!!全体ビュー 3100Up??

長谷川善雄翁

    藤原正彦氏は「国家の品格」の中、191ページでこう述べています。
世界を救うのは 日本人
 日本は、金銭至上主義を何とも思わない野蛮な国々とは一線を画す必要があります。
「国家の品格」をひたすら守ることです。経済的な斜陽が一世紀ほど続こうが孤高を保つべきと思います。たかが経済なのです。
 大正末期から昭和の初めにかけて、駐日フランス大使を務めた詩人の「ポールクローデル公」は、大東亜戦争の帰趨のはっきりした昭和18年に、パリでこう言いました。
「日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界でどうしても生き残って欲しい民族をあげるとしたら、それは日本人だ。

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 私はこのページで 述べられている「詩人のポールクローデル公」と長谷川善雄翁が直感的に繋がりを感じました。

 なぜならそれは私が、長谷川善雄翁が、詩人「ポール・クローデル全集」の翻訳権を持っているということ、この地「田原小学校記念誌・学びの郷」か何かに書いてあることを知っていたからなのですよねー。        長谷川善雄善雄翁は、早稲田大学に進学、その在学中に長唄三味線方に趣味として四世 杵屋佐吉に出会ったのでしょうねー。彼は「杵屋勝治郎」の名籍を持つほどですよねー。
四世 杵屋佐吉
 大正12年(1923年)にフランス大使として日本に来ていた詩人P.クローデルの詩の印象を歌詞「女と影」を三味線で表現した。その他、新舞踊曲や歌舞伎舞踊曲も含め、それまでの常識をうち破った新しい様式の作品を世に送りだした。新作発表の場として「芙蓉会」を設立。大正元年から晩年まで、百数十回を数えたこの演奏会は、研精会と並んで当時の長唄界を二分していた。
 最後にもう一つ、四世佐吉が成した大きな仕事は、とくに第二次世界大戦中、歌舞音曲は非国民のやることと言われた時代にあって、長唄協会の会長として(昭和13年(1938年)から晩年まで)、長唄を日本の音楽として守り抜き次代に伝えたことである。

 長谷川善雄翁は、この時期に「詩人ポール・クローデル公」の詩「女と影」、に興味を持ち没頭していったのでしょうかねー。
 後、長谷川善雄は、詩人「ポール・クローデル公全集」の翻訳権を得るほど親交しているのですよねー。
 私が述べたいことは これほどまでの「深い親交」の中から 元駐日フランス大使であるポール・クローデル公が、ある「パリの夜会」でこう言いました。
「日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界でどうしても生き残って欲しい民族をあげるとしたら、それは日本人だ。
 ポール・クローデル公に、こう言わしめた「長谷川善雄翁の功績」は、単に彼一人の力とは決して言いませんが、私たちはこのことを忘れ去ってはいけませんよねー。

「世界でどうしても生き残って欲しい民族をあげるとしたら、それは日本人だ。」この言葉が「カイロ宣言」に繋がっていて、我が国が分国の危機を避けられているのです。

これだけの功労者の「長谷川善雄翁」が、時代の片隅へと追いやられているのですよねー。      ( フランス パリ 長谷川善雄 )

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藤原正彦エッセイコンクール!! 第二回

一般部門佳作
     「嘘の功罪」
                   県広島市  榎 並 掬 水
「雀が鳴いとるようじゃのう」 母がポツリとかすれた小声で話しかけてくる。せつなに 母の寝耳に届いたのと同じ鳴き声を、母と一緒に聞いた気持ちに駆り立てられた。母の布団のすぐ脇にごろりと横になっていた。
「今日は 晴れとるかいの 降っとるかいのう」
もう百姓仕事など儘ならない体ににもかかわらず、その日の空模様は いつもの習いでふと気にかかってしまうらしい。齢八十をとっくに超えて衰弱しきったいまでは起き上がることさえもかなわない、わずかに顔一つを明るい障子の側に向けた。
「今は春かのう、秋かのう」
私は立ち上がった。外はまだ小寒いいため、障子を十センチほどそろりと押しやって、母の方を振り返った。母は狭い隙間から、遥か遠くを眺めるように、目を細めた。視線は虚ろに宙をさまよっている。流れこんでくる微かな風をじっと追いかけているさまにあった。
「カヤノ婆さんに会いたいよ。 声をかけてみてくれんかのう」
とつぜん母が言った。顔をこちら向きに動かすと、すがるような眼差しを、私の方に投げかけてきた。私は、驚きと戸惑いと、半々に胸元を突き上げられて、とっさに母の上に戻していた。
「婆さんは、もうおらん。とっくの昔に死んでしまったじゃないか。」
あの両目が、大きく見開いた。精一杯の力を体上に滾らせて、顔真っ赤に染めた。必死の面持ちで私を見つめてきた。しまった、その瞬間に過った。母には、今、昔と今とがひっくり返っている。今が昔に昔が今になっている。母の母は、母のなかで、今現在もしっかりと生きている。息をのんだまま、私は、その場に声を失った。「・・・・・」
なにかに答えてやらなければ・・ 焦れば焦るほど頭の中が真っ白になり、次のひと言が、どうしても口をついて出てこない。いきなり見開いた母の目に、光るものが潤んだ。しばらく私を見守った後、やおら天井に向かって視線を戻すと、母は、涙のたまった瞼を幾度か瞬いて、程なく、スウスウと小さな寝息でたて始めた。
年老いた母の寝顔を恐る恐る見下ろしながら、私は、小さな空咳といっしょに乾いた唾を吞み込んだ。そのひと呑みが、石さながらの重たい塊となって、臓腑に落ちて、胸の奥まった一隅に沈殿していった。
母が亡くなってから、早くも20年余りが経っている。いつの間にか、私も喜寿の歳境を渡り越した。それにしても、あのとき吞み込んだ石のような塊が、いまだに私の中に重たく沈んでいる。それが何かにつけて、奥深くからこみ上げてきて、胸板を叩いてくる。
過ぎ去っていったはるか昔が、昨今今日のできごとさながらに今現在に引き戻されてくる。そういった魔訶不思議な、神の恵みともおぼしい母のあのいっときに、どうしよ処しようもなかった私の不甲斐なさへの、悔やんでも悔やみきれない悔過の一念が、今も、私の中から消え去ろうとはしない。
が、いっぽうで、もし母が、母以外のだれか他の人であったなら、と思う。もしも母ではなかったとしたら、差し向ううその僅かなあいだにさえも、ほぼ間違いなく、何かの繕い言を漏らしたに違いない。
「婆さんも会いたがっとる。早う治らんと・・・」
「稲刈りが済んだら、さっそく飛んでくるそうじゃ」なぞなぞいっとき先に期待を抱かせてみたり、そんな気慰めを苦もなく言い放って、その時その場を凌いだに相違ない。今時分になって、私はそんな、絵空ごと、つくり話に、そぞろ思いを巡らせてみたりもする。
母と差し向かったあのとき、どうしても次のひと言を告げることができなかった悔過の一念のすぐ脇で、そんな委細が、ほそぼそながらも脈を打っている。 忌憚なく言って、これぽっちの穢れも邪なものもない。ただひたすらな一心のせいで、どうしても、次に続くはずの嘘のひと言が、私の口をついて出なかった。一瞬のうちに母とのあいだに行き交った、私の偽りなき心、そういう言葉、文言でももってしかなぞらえようがない。子ながらに親に寄せていった一途な心、それよりほかの、なにものでもありはしない。
今では、その委細が、嘘を吐くことのできなかったそのわけか、恨めしく哀しい思いの裏側で、一毫の救いともなっている。

この詩も、私が大変気に言っている文節ですよねー。最初に紹介した「国家の品格」経済的な斜陽が一世紀ほど続こうが孤高を保つべきと思います。たかが経済なのです。人は、何か繋がりの中で生きているということを、この詩は、分かりやすく書かれていると感じるのですがいかがせしょうかねー。


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