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37「卑弥呼」to「柳田國男翁」to「邪馬台国」!!金光山全体ビュー 3000Up!!

「金光山日光寺」の話 全体ビュー 3000Up!! ( 日光寺山、日の出写真 )

では次に、この地の「金光山日光寺」の話に入りましょうかねー。
日光寺では、守恕法親王が、「隠匿」されたことが寺の木札に記されていますよねー。守恕法親王は、徳川家二代将軍徳川秀忠の娘徳子、その子霊元天皇の子、有栖川宮文仁親王(きょうごくのみや あやひとしんのう)の皇子「有栖川宮守恕法親王」で、仁和寺第24世 後光明寿院御室 京極文仁親王第2子(1706年生~1729年没)「守恕法親王」となっていますよねー。
 享保13年(1728年)隠居
日光寺は、真言宗御室派の寺院で、その歴史は古く法道仙人の開基とも言われています。 お寺の残決の中に、文化13子丙林鐘(1816年)とか、文化13子丙十月姫路龍野町三丁目 原治右衛門 とか 原武兵衛合恕作 龍野町三丁目とか瓦にはその文字が書かれていますよねー。

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 日光寺、著明なる法主と寺院盛衰略史
                          安 井 淳 明
本山草創ハ人皇第三十七代孝徳天皇、大化元年(西暦六百四拾五年)、法道仙人印度ヨリ渡来、日光寺、月光寺万多羅寺、初メ数個ノ寺院ヲ建立、他二法華山一乗寺初メ播磨ノ国中四十数ヵ所ニ寺院ヲ建立、白鳳元年、第四十代天武天皇勅願寺トシテ寺領拝受隆盛極ム、亨保十三年、京都御室御所、仁和寺第二十四世、入道守恕親王、桂宮文仁親王皇子、霊元天皇御猶子後ノ後光明寿院院御一品大王尊義、本山隠居、待従阿闍梨法月、初メ数名随へ来山、世二播磨御所日光寺卜称号、今二御室御所、御定目十六菊紋有り、後光明寿院、享保十四年人寂。
宝暦年間、奈良ノ僧湯川了心明道上人、学徳秀レ諸国ヲ巡錫シ、加賀百萬石蒲生郡五代目ノ子無ク千授ケ所祷ス、六代目奥州松島六万石松島性変名六右ヱ門、次デ明石、三千石トシテ来住、今二十輪寺二墓有り、其ノ末家ハ富士山豊秋妻也、富士山氏ハ現兵庫県教育委員会事務局二奉職シ毎年正月送金御供ス、了心明道上人、十輪寺復興後加西多賀野、虚空蔵院、薬師院復興後
本山ニ来住十三棟ヲ建立ス、後二生命中ニシテ土中二入り入寂ス、今モ墓有り、此レ中興開山明道上人と、中興二世信慧上人ハ瀬戸水軍ノ将河野直賢出家、本山来住ス河野家多クノ田畑ヲ寄進シ南大貫慈光寺庫裡フ建テ隆盛ヲ極ム、末寺ハ溝口大日庵、坂戸文珠院、加西多賀野虚空蔵院、業師院、初メ多クノ末寺二各米八石ヲ供シ養フ、坂戸ノ小野、山下、桜ノ鬼本、神谷ノ後藤、溝口大塚等壇徒也。後二七世金沢真明代、明治ノ廃佛毀釈頃堂宇護摩堂一宇残シ全部売払イ寺ヲ出テ田原落ヶ池近クニ住ミ、後自殺悲業ノ死ナス、西光寺宝生院ニテ葬式、戒名狐山真道信士卜過去帳名記アリ。
明治二十年頃当国宍栗郡船越山瑠璃寺中興第二十七世徳川照尊、西郷降盛卜親交有り西郷野二下リシ折り明治天皇二上申書差出シ其ノ為瑠璃寺ヲ出テ、日光寺住シ、八十五才人寂、尾張国熱田逢来山伊勢守真道長男幼名補徳川照尊生年五才ニテ沙門照道和尚得度授戒、明治甘四年十一月八日示寂八十五才大阿闍梨金剛乗院天霊上人号多ノ書今二大貫各家残レリ、尚本山本堂格大
舛二国主陀羅尼経梵字ヲ書残セリ。
昭和五年十一月現住淳明入山、出身地宍粟郁三河常光寺安井淳良二男トシテ生ル、十才ノ折父淳良死亡セシエテ宍粟郡千種西方寺入寺、安養寺井上僧圓師トシ、後故有瑠璃寺大江慶尊ノ元ニ入寺 、高野山安養院住シ学業修得後神戸、九州、小豆島等各地ノ住職ヲ務メ、後日光寺二入山ス、以来本堂、庫裡、求聞持堂、鐘堂、研修会館、墓地納骨堂ヲ復興シ今二至ル。

昭和四年、現住職が当山へ入山せるも、その退廃を嘆き播磨日光寺復興奉賛会を組織し、会長を時の八千種村長の難波撰次氏に乞い、吉識明氏や有志三十有余名の賛助者を得て奉賛会の発起を見、神崎郡内十六ケ村の有志が後援者となり、浄財の寄進を願う折り、時の兵庫県知事、岸田幸雄氏や民俗学者の柳田国男氏など、数万余人の浄財により本堂の修複庫裡の新築昭和二十四年に完成し、当山日光寺の復興となる。
数年後、当時境内へ「NHK」の放送中継設備を誘致するに及び、参道の拡幅を田原村共有山の土地を無償にて提供を受け完成し、自動車にての登山が可能となり、二階建ての研修所や、自瀧霊水場所と鐘楼に「求文珠堂」などなどを建立して仏法の道場となし、昭和十七年に境内国有地の払い下げを見る。
昭和二十四年推されて、神崎郡仏教会の会長などを務めて、日光寺昭和の中興をなす。

 この地の「日光寺」も、京都比叡山と似て北東の山「金光山」中腹にあって、日々我々が目にはいって親しみのある山なのですよねー。登山道が整備されて、毎日多くの人の山登りの練習場ともなっていますよねー。私は「北野神楽」の笛の練習場として10日に一度程度通っていますよねー。いい所ですよー。亨保十三年、仁和寺第二十四世、入道守恕親王本山隠居、と仁和寺記録「守恕法親王」(1706年生~1729年没)が合致しました。「日光寺縁起」も間違ってはいないのですよねー。

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  高峰城址と日光寺
                           春日山人
八千種の北端に屹立する峻峰高峰山は、東は加西市畑町に接し、西は福崎町田原に連り、北は市川町瀬加に続き、南は眼界開けて播磨平野を一望の中に眺め、遠く飾磨沖の真帆片帆を透して、家島群島を望見出来る誠に景勝の峰にして、海抜四百二十米余、往昔此の山頂に城郭あり、名付けて高峰城
と云う。古い系図並古記録に依ると、大畧次の様な事が記載されてある。
天智天皇の御宇内大臣藤原鎌足公三十九代の孫、藤原朝臣「繁雄丸」当国神東郡の幹なる赤松家の城主也。しかし中絶せり。依りて之を再興せんものと思ひ給ひて、三男藤原保雄丸を亀坪高峰の城主となし、武田信濃守藤原保久と名乗らせ給ふ。爰に天正の頃当国三木の城主別所小三郎殿と、羽柴筑前守秀吉公と戦ひの折柄落城せり。然るに麓に広野あり。此の場所を開発し農民となり給ふ。今の仁色の里の長なり。然るに光祖仏果の為寺院を建立す。即ち正院山(照蔭山)西勝寺也。文禄二年( 一五九三)巳弥生十七日の夜夢のお告げに高峰の麓の新田を開き城主の先祖を祀り給へとのお告あり。
 誠に仁色の里の元祖高峰山の城主の仰せなりと思ひ給ひて、直ちに次男「吉丸」三男「彦之亟」二人の者へ是より六・七十町艮の方の高峰山の麓に亀坪谷と云ふ所あり、爰を開発し高峰の城の先祖を産神と崇め大歳大明神のお社に祀り子孫末世の善生を祈るべしと有ければ、父の仰に随ひ両人公は今や直ちに開発を始めたりき、其の節西勝寺より銀五貫目を賜り祖神を此の地に祀り給ひ、亀坪新日を開き其の子孫爰に居す。とあり長二米五七糎巾二七糎の立派な巻物に系図が書かれてあり、元和三年( 一六一七)八月福永治郎左衛門藤原祐重記之と奥書が書かれてある。(紙面の都合で系図は省畧。)
 大永元年( 一五二一)九月十七日赤松政村(義村) (置塩二代城主)は、執権浦上村宗の為に播州室津に於て殺され、其の家臣である小寺藤兵衛、宍栗作五郎、伊豆孫四郎等の諸士は、一旦淡路の国へ逃れたが、大永三年( 一五二三)之等の諸士は淡路の国より福泊(姫路市的形港)に上陸し、神東郡大貫上の高峰と云ふ所に陣を取り、赤松左京太夫晴政を大将として、浦上村宗を攻め亡ぼさんと謀議をせりと云ふ。              中興開阻明道上人 和州吉野湯川之人也 姓湯川比の城は其の規模宏大にして、本丸を始め一ノ丸から五ノ丸に至る数段の台地を有し、本丸内に長十二米、巾八米の天守台があり、周囲を石垣にて囲み、築城当時は此処に天守閣が建立されていたものと推察される。
 尚築城当時此処に高峰神社が建立されて、域の守護神として城主並に将兵一同の崇敬篤かりしも、天文十一年(一五四二)一月雲州尼子政久の軍勢当国指して攻め入り、小寺氏との合戦に一時城を放棄せし時現今の地に遷座されたが、其の後永禄年中(1569年頃)にに兵火にかかり、神宝、記録、七ケ宿坊等統べて鳥有に帰し、其の後再建せしも、大正五年八月五日大破せし為再び建立して現在に至る。今此の城跡の高峰神社鎮座跡に小祠あり、名付けて小宮と云ふ。深山幽谷の此の小宮に参拝者があるのか神前に賽銭が散乱しているのを見受ける。此の高峰城址の西方に聳える山を日光寺山と称し、其の間約八百余米頂上の東西に巨大なテレビ塔が沖天高く聳えている。両山を連絡する立派な道路が通じていて、当時としては良く整備された道路であった事が肯ける。尤も現在は両側より生え繁った雑木の為に通行困難な所もあるが、全体的に見れば通行には大して差支へはない。高峰城全盛時代には此の道路も数多くの人士が頻繁に往来した事であろうと想像される。天正六年(一五七八)羽柴筑前守秀吉の軍勢が、瀬加、川辺の両城を蹴散らして高峰城に殺到した際、その一隊が瀬加の加茂谷の急峻を一気に駆け上がり日光寺を経て此の道路を通り高峰城に攻め込んだ事は容易に肯けるのである。
 此の日光寺山の中腹に、古色蒼然たる堂宇がある。之れが有名な金色山日光寺で、此の寺は今より凡そ一千三百有余年前即ち人皇第二十六代孝徳天皇の御代に法道仙人が始めて開山した寺である。
 扨て日光寺の縁起に就ては、前の「かたりべ」第一集に同寺住職安井師に依って詳しく述べられているので、今回は同寺に伝わる本版刷に彫刻されている縁起録を原文のまま掲載して、大方諸賢の御披見に供せん。即ち左記の如し。
 本山の草創は人皇三十六代孝徳天皇の大化元年(六四五)法道仙人本国にうつり給ひ普転法輪法最じゆくし給ひて、仏閣を建立し給ふ事不一に也。時に本山の頂に金色の気恰も日輪の如く普く六合を照し給ふ。仙人其の霊あるを知り給ひ始めて道場を開き金色日光と号す、自ら千手十一面観音の像を刻
み給ひて本尊となす。白鳳元年勅命あって伽藍を営造永く国家の静寧を祈らしめ給ふ。其の後星霜数移り天運稍かはり殆廃亡になる事年久し。享保二年(一七一七)丁酉(大化元年より千七十年)明道聖人本山の廃亡を聞く憾歎に堪へ給はず、錫を投じ法を修し給い徳声日々に高まり法燈再び輝き諸人徳
化を蒙り踊躍して拝過し随喜の力を合する者数万人、木を伐り石を積み再び堂宇を建つ今の寺是也。始め聖人立志の日地高うして水なきを慮り観法一日にして忽ち金色の龍を磐石の上に観給ふ。遂に出て衆人に示し給ふは観相空しからず、自ら錫を以て其の首尾の処を指され給ふ、衆人進みて其の処を
堀れば霊泉湧出づる事湛然として淵の如し、今之を仏の為に供ふ。是○○相続の基なり寔の聖人は阿観名匠一宗の棟梁にして、もとより○○○○遺徳斯の如し、奇事数あげて言ふ遑あらず。別に行録あり、今ここに一、二を畧しあげて本山緑起の由来とす。
金色山中興世譜
 興開阻  明道上人  和州吉野湯川之人也 姓湯川
       延宝元年生  宝暦二年……
二 祖   守深上人  本国○○真浜の人也 姓河野
      明道遺弟   正徳二年生
三 祖   信恵上人  備中国新見之人也  OOO
            以下不明
参 考
此の他高峰山周辺に次の様な日月に関係のある寺がある。           金色山 日光寺   在福崎町八千種
日出山 月光寺   在市川町下瀬加
増輝山 朝日寺   同    右

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