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35「卑弥呼」to「柳田國男翁」to「邪馬台国」!! 播州皿屋敷

 播州皿屋敷       『竹叟夜話』

『竹叟夜話(ちくそうやわ)』に収録された話である。『竹叟夜話』は、天正5(1577)年に永良竹叟(ながらちくそう)という人物が著したとの奥書があり、これが事実であるとすれば、現在のところ『播州皿屋敷』を掲載した最も古い書物となる。江戸の『番町皿屋敷』と姫路の『播州皿屋敷』との、どちらが古いのかという議論が古来あるが、近年では『竹叟夜話』の奥書に注目して、『播州皿屋敷』の方がより古いとの見方が有力となっている。

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『竹叟夜話』の話は、時代を室町時代後半、播磨を山名氏が守護として治めていた時期、嘉吉元年頃(1441年)に設定している。舞台は青山に拠点を構えていた山名氏重臣の小田垣主馬助(おだがきしゅめのすけ)の館となっており、ヒロインは「花野」(はなの)という名前で書かれている。また皿数は、小田垣氏が主君山名氏から拝領した5枚そろいの鮑貝(あわびがい)の盃で、これを「花野」に想いを寄せる若侍の「笠寺新右衛門」(かさでらしんえもん)が隠し、重臣の小田垣主馬助が「花野」を拷問して殺害したとされる。そして「花野」の怨念が夜な夜な現れては仕返しをくわだて、また「花野」がつるされた松を「首くくりの松」と呼んだと記されている。  山名氏が青山に拠点を構えていたことは、同時代の史料では確認できない。しかし、現地に比較的濃密な伝承が残されており、個々の具体的な場所は別として、大まかに青山付近に拠点の一つがあったという程度であれば、事実とみてよいのではないか。 

嘉吉の乱                               嘉吉元年(1441年)8月中旬、山名持豊は4500騎をもって但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み、この方面を守る赤松義雅と数日にわたり攻防があった。
8月28日、山名持豊は真弓峠を突破し、退却する赤松義雅を追撃しつつ坂本城に向かって進軍した。
8月30日、両軍は田原口で決戦を行い、赤松義雅は善戦するが力尽き敗走した。
9月1日、山名持豊の軍勢は坂本城へ到り、細川持常の大手軍と合流して包囲した。
9月3日、赤松満祐は城を棄てて城山城(兵庫県たつの市)へ移る     嘉吉元年(1441)但馬国の守護職、山名持豊(後の宗全)は、幕府の命令を受けて真弓峠に布陣した赤松満祐の軍を破り播磨国を占拠しました。        

『竹叟夜話』に山名氏の重臣として登場する「小田垣」なる人物も、実際の山名氏の重臣で播磨守護代の一人となった太田垣主殿助(おおたがきとのものすけ)をモデルとしたものであろう。そして、その後の『播州皿屋敷』で一般的となる悪役の「青山鉄山」とは、この「小田垣」が青山にいたとされてきたことから創造された人物と見ることができよう。              いずれにしても、『竹叟夜話』が創作されたのは、但馬山名氏が播州を制圧した一時、嘉吉元年(1441)但馬国の守護職しかなく、その130年後に書かれた話となるのですよねー。  兵庫県立歴史博物館「ひょうご伝説紀行」参照

 日本中の「皿屋敷」伝承は、『竹叟夜話』が大元となって、それに似たような事件に尾ひれが付けられ、また違う伝承話として出来ているのではないのでしょうかねー。

播但一揆

    武八郎も山へ向かったが「何分役人ヲ付候様二相叫鉄抱二両打候故、大庄屋ヲ付候様二申鉄砲打掛候故」加治谷村に逃げ込んだ。            暫くして人の声も薄くなってきたので'辻川村の近辺まで行くと、三木承太郎宅の米蔵が燃えており「居間の方へも燃え移りはしないかと心痛し」また自分の家はどうなったのかも心配になって、辻川村の端まで加治谷村の人に見に行ってもらった。加治谷村の者は帰ってきて、武八郎の家は無事で、一揆勢は神西郡の方へ行ったと報告した。そこで上瀬加村の源右衛門に出会い、「御役人様如何被成侯哉」と尋ねると、薬師山に逃げたとのことである。      武八郎は、「英二不快事二両賢人申候」と感想を語っている。
 翌一四日、加治谷村に隠れていた武八郎は、北野村の皋家に家族が避難しているのを知って、怪我等していないかと皋家に行ってみると、本家の三木承太郎一家も来ており、皆が無事であることを知った。安心して茶を一杯飲んでいると、書役の仙吉が、田尻村の八十島衆道が大庄屋を呼び出して来いと言っているが、行-と悪いことが起るので、いずれかにお逃げ下さい、と忠告に来た。そこで承太郎と一緒に中ノ谷へ逃げ、そこから加治谷村へ出ると、太尾村・御立村の大庄屋宅が焼失する煙が見えた。
 加治谷村から灰石の役所に逃げ込んで、役人の井上に頼んでやっと朝食を食べたが、薬園も焼失していた。一揆勢は武八郎宅を襲撃する噂もあったが、救援の人数も増え、大砲の音がして一揆勢も散々になり、我家も無事で安心した。武八郎は「八ツ時過」(午後二時)まで世話になって、昼食を食べて北野村まで帰った。「須加院、御立'太尾町村、蒲田、毛野大庄屋其外小庄屋も焼失いたし候噂」を聞いて、その晩は承太郎と妙徳山に泊まった。          一五日早朝、妙徳山から帰った武八郎は、「英賀庄屋も焼失いたし候、銀山へ乱入いたし候噂有之、屋形村二而士竹鋸二而付ころし候噂も有之候」と語っているが、これらの噂は正確である。

 明治一〇年代に書かれた、高浜滴翠の『血の涙』という本のなかにある、飾東郡山野井村の庄屋赤鹿八郎が失敗した金肥購入の損失金を、姫路藩が管内農家に割り当てようとしたのに、小国鉄十郎ひとりがこれに強く反対したからという説を、戦前に太田陸郎氏が紹介している、今日でも有力な意見になっている。また、既に神崎郡役所が編纂した『神東神西郡沿革考』のなかでも、「姫路藩数十人嫌疑者ヲ掃獲拷訊シ、在囚中神西郡小国鉄十郎(相計軸か謂削瑠鎚讐㌢謂相場獣鵬謂務)ヲ以テ之ヲ渠魁二擬シ、鉄十郎亦頗ル任侠有り'多囚ヲ救フニ意有り強テ陳疏セス、終二渠魁ノ名ヲ被ムリ新二虞セラレテ死ス。」と小国の無罪が主張されている。

 三木武八郎は、一八七七年の「戸籍」によると、一八三二(天保三)年11月十七日、摂津国武庫郡西之宮中川甚兵衛の次男として生まれ、播磨国神東郡辻川村の三木武八郎家へ養子に来た。同家には養母・妻・五男の家族がいる(兵庫県神崎郡福崎町三木美子氏所蔵)。

三木進氏所蔵。同「日誌」は、一八六三(文久三)年二月十六日から一八八五年十一月四日まで、断絶があるが四冊残されている。「日誌」の全文は、福崎町史編集専門委員全編『福崎町史』第四巻(福崎町、一九九一年発刊予定)に収録したが、田尻村のの八十島衆造は、「先年中八十島卜名乗り、相撲渡世ノ者二有之候処、元水戸藩二被抱'明治元戊辰年伏見変動以来所々戦争二携り、遂二箱館ニテ降伏、其後朝廷ヨリ御赦免ニテ帰国致シ候」者である。

 これとよく似たような話「寛延一揆」の話がありますよねー。酒井雅楽頭の時代に「朝鮮通信使」の招聘に多額の経費がかかり「年貢」の引き上げに反発した事件。

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偏正寺 (へいじょうじ)谷                                現在の町民第1グラウンドは、昔は「桃山」と呼ばれ、多くの桃が栽培されS 27.4.27の鷺城新聞には「モモの里 福崎へ」今秋は出荷5千貫?と言った記事も掲載されたようです。
 その東下の谷筋には「偏正寺」と思われ池が存在し、建物跡のような竹藪に覆われた場所、そこに「偏正寺」があって、子供ころには「へいじょうじ」と呼んでいました。
 その痕跡は、グラウンド上の谷筋の池にありますが、もう二度と歴史上には出現しないこの場所(偏正寺の谷)となります。                                          延慶年代に 妙徳山神積寺が 火災でなくなった時より二十五年後に元弘の乱がおこりました 妙徳山の偏正院・金剛院より、騎馬三人・足軽二十人旗揃して着到、同じく田原庄神主「文殊院」これに同列するとあります。

松茸の記憶
 私の「松茸」への記憶は、昭和27~28年頃のことですが、辻川山(天神さん・薬師山)は、柳田国男氏の記憶と同じく子供の頃の遊び場でした。
 何かと言えば天神さんで、ここで松茸についての話(記憶)を話します。
 天神さんの松茸は、例年、辻川の旅館「ます屋」の所有となります。そのため9月23日~11月15日までは「入山禁止」となり遊び場がなくなるのですが、子供心にもそれほど不便は感じませんでした。
 土日ともなれば、山の頂から三味や太鼓の音が聞こえてくるのですが、それは、私たち子供や住民にとっては別世界の出来事であったのです。
 また、いくら「入山禁止」天満宮は山の中にあり参道の横は山でした。
 ある祭の夜、お宮の玉垣から外を見ると、「龍の鱗」のように松茸が青白く並んで光っていたことを記憶しております。
 その頃の松茸と言えば、近頃と違って足で蹴飛ばしたり、ご飯時おかずがないときなど母から、そこの松茸食べときなーと言うような時代でした。
 大正・昭和の初期の頃にかけては、松茸狩りの臨時列車も度々運行されているとの記事が鷺城新聞にも再々掲載されています。


「掛上がり」の話                             北野村の南端に、「掛上がり」(かっきゃがりとも言う。)という地名があります。これは江戸時代後期に北条街道が整備された時に出来た「坂」からの由来からではないかと考えられます。(現在の福崎警察署東派出所北旧道の坂)当時荷車を引いた者が、この坂には相当難儀して、坂下の西側から反動をつけて登りきる。掛けてきて登りきる。このような事からここの地名が「掛上がり」と呼ばれるようになったのではないかと考えます。


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