表現の自由と不自由について

「あいちトリエンナーレ」の『表現の不自由展・その後』がネット上で大きな論争となっている。経緯をざっと説明するとこんな感じ。

韓国の彫刻作家が制作した「平和の少女像」など数点の作品が問題視され、視察した河村たかし名古屋市長は「撤去要請」を求めた。

運営には抗議が殺到し、回線がパンク。単なるクレームだけでなく、テロ予告なども寄せられた結果、大村秀章愛知県知事は、「展示を中止する」ことを発表した。中止の理由は、あくまでも「安全面への配慮」としている。

「平和の少女像」だけでなく、他の展示もすべて昨日、8月3日をもって終了となった。

この問題について、一応「モノづくり」をしている端くれとして、思うところを書いてみようと思う。

アートとは「目に心地いい」とは限らない

「平和の少女像」を見て、一瞬、私も嫌な気持ちになった。それでも、撤去とか中止するのは違うと思う。

ここで考えたいのは、この展示のコンセプト「公立美術館などで撤去された作品を、その経緯とともに展示する」である。

この展示は、もともと何かしらの「問題がある」とされた作品を並べて、なぜ撤去されたかを考えることが目的なのだ。

「アート」とは、「目で見て美しいと感じるとは限らない」ものである。
時には「目をそむけたくなるような現実」や「社会問題」に目を向けさせる力があるものなのだ。

それが「アート」の存在意義の一つであるなら、思わず目をそむけたくなった「平和の少女像」は社会的問題定義をしているという意味で、立派なアート作品である、といえる。

どんなに不愉快であろうと、それが「アート」というものなのだ。

作品を展示する=作品の意図に賛成する、ではない

多くの批判が集まっているのは「この作品を展示したということは、あいちトリエンナーレは、韓国による「平和の少女像」のヘイト活動を容認するということだ」と捉えられているから。

でもそうではないでしょ。

今巻き起こっている議論も含めて「なぜこの少女像は撤去されたのか」を皆で考えることこそが、この展示の趣旨なのだから。

それについて、いろんな考えがあっていい。まずは「考えるきっかけになること」それが大事なのだ。

慰安婦像を見て半ば反射的に怒りを表明しても、慰安婦問題の本質や現状について、理解している人は少ないのではないか、と思う。(私も含め)

それならば、今回のことを機に、少しでも真剣に考える人が増えたら。そして、お互いに歩み寄って、少しでも解決方向に向かったら。(実際には、それが難しいわけだが)

それこそがこの展示をする意義だったのではないか、と思う。

例えば、好きな歌手が「反戦」や「反核」をテーマにした曲を歌ったことがきっかけで、それまで考えたこともなかった「戦争」や「原発」について考えるようになった、というようなことはないだろうか。

今回の問題もそれと同じ。

「アート」には「ムーヴメント」を起こす力があるのだ。


わかりやすいよう、芸術監督の津田大介氏の会見を引用する。
そのあとに、さらに私のコメントは続く。。。長いので読まなくてよいけどね。(珍しく弱気)

津田氏は愛知県などの行政の立場について、「表現の不自由展」のコンセプトを「認めている」ものであり、「個別の作品への『賛意』として認めているわけではない」と説明。
津田氏は『表現の不自由展・その後』の企画意図について、「撤去された作品の実物とともにその経緯を鑑賞することで、議論が分かれる『表現の自由』という現代的な問題について議論するきっかけにしたい」と話し、「実物を見て判断していただきたい、ということが、この展覧会の揺らぎない趣旨であることをお伝えしたい」と呼びかけた。
「わずか3日で展示を断念することは、断腸の思いです」と厳しい表情で語った。「いまでも展示は続けたいという思いです。電話抗議ではなく建設的な議論ができなかったのか、悔しい思い」。
展示中止に至る過程においては、河村市長の発言が注目されたが、津田は「一切関係ありません」と断言。安全管理上の問題が唯一だとしている。
会見では、抗議活動が展示を中止に追い込めるという「成功体験」になってしまうのではないか、という問いに対し、津田は「電凸(でんとつ)することで公立の文化事業を潰せてしまう、という表現の自由が後退する悪しき事例をつくってしまった」と反省の意を述べた。


それにしても、この展示がもう見られないとは、本当に残念だ。あまりの暑さに、「もうちょっと涼しくなってから行こう」などと、のんびりしている場合ではなかった。

私自身「見ないで判断」している点では同じ。この目で見た上で発言したかった。それがかなわないのが悔しい。

制作する立場と見る立場で180度変わるモノの見え方

この件について語るのは、実はとても難しい。それは、その人の立場によって考えがガラッと変わるからだ。日本人と韓国人、それ以外の人。制作者と鑑賞者でも全く違うだろう。

制作者の多くは恐らく、危機感を持って見ている。これは単純に韓国と日本との外交上の問題だけではない。

政治や世論の圧力に、「表現の自由」が屈したということだからだ。

「日本は正しい」と信じるなら、なおさら、それを広く世界に問うためにも、この作品を展示することは有意義だったはずなのだ。

アートを政治的に利用されることを懸念するという意見もあるけれど、それ以上に、自由に表現したり、言いたいことが言えなくなることのほうが、ずっと危険なことだ。

津田氏も述べているように、「表現の自由が後退する悪しき事例」ができてしまったことは非常に残念。それが多くの制作者に共通する想いだと思う。

先人たちが闘って手に入れてきた「表現の自由」

先日の選挙の際に繰り返し言われてきたことのひとつが
「先人たちが闘って手に入れた、せっかくの権利を無駄にするな」
という言葉。

これはアートにも当てはまる。

昔々には「表現する自由」なんてなかったんだから。

小説みたいに「検閲」が入ったりなんてことだけじゃない。

もちろん、戦争中は、ヨーロッパでも反戦を込めた絵を描かないよう監視されていた。フジタのようにプロパガンダに利用されて戦争画を描かされたなんてこともあった。

でもさらに大昔には、もっともっと「芸術」「絵画」の世界は不自由だった。

私たちが今、何でも自由に描いて発表することができるのは、先人たちが「不自由」と闘って勝ち取ってきた「自由」のおかげ。

そのことを忘れてはいけないと思うのだ。


日本ペンクラブが「展示を続けられるべき」という声明を出したとのこと。

声明は芸術について「制作者が自由に制作し、受け手もまた自由に鑑賞する。同感であれ、反発であれ、制作と鑑賞の間に意思を疎通し合う空間がなければ、芸術の意義は失われ、社会の推進力たる自由の気風も萎縮させてしまう」と強調。


※以下は、アートの歴史に触れており、非常に長いので、ご興味ある方だけ読んで欲しい。

「印象派」以前の絵画の世界

それほど美術好きではなくても「印象派」を知らない人はいないだろう。モネの「睡蓮」やルノワールの美しい女性像など。画家が見た「印象」のままに、やわらかい筆致で描かれたその作品は特に日本人には人気が高い。

実は、「印象派」という名前はとても奥深い。彼ら印象派の画家たちがその絵を描き始めた時、画壇では「目で見た『印象』そのままを絵画として描くことは『異端』とされていた」からだ。

「印象」そのままを絵に描いてはいけないって、どういうこと?じゃ何を描いていたの?と思うだろう。

当時の絵画の主題は、神話や宗教の世界に限られていた。ヴィーナスやダビデやオリンポスの神殿や、キリストや聖母マリアを描くことはできても、農夫や商人や娼婦やカフェや家の庭など、市井の人々の生活を描くのは「芸術ではない」とみなされていたのだ。

優し気でやわらかな「印象派」の絵画たちは、実はそんな画家たちの闘いの中で生まれた。目で見た「印象」を描くことは、今の私たちの想像以上に「アヴァンギャルド」なことだったのだ。

「ポップアート」と大量生産

映画などは、社会的背景を知らずに見ると、ちんぷんかんぷんだったりすることがあるが、「アート」もしかり。

社会が大量消費時代を迎える中で、マルセル・デュシャンの「レディメイド(Ready-made 既製品)」と呼ばれる「芸術ではない芸術作品」が「アート」として確立されたのは革命的なことだった。

「便器」や「自転車」といった「既製品」「工業製品」をただ展示することで完成する「アート」。

デュシャンの解釈は難解で、実は私も書いていてよくわからなくなってくる。昨年末に行ったんだけど、上野のデュシャン展!すっごくよかったのに、やっぱり説明しようとするとムズカシイ。

まぁそんな「反芸術」や「ダダイズム」のあとに登場するのが「ネオダダ」と呼ばれる、のちの「ポップアート」だ。

「ポップアート」は、良くも悪くも「大量生産・大量消費社会」をテーマとしている。マリリン・モンローのシルクスクリーン作品で知られるアンディ・ウォーホルと、アメリカンコミック風の絵画で著名なロイ・リキテンスタインが二大巨匠だ。

ウォーホルの「キャンベルスープ」はアメリカの家庭ならどこにでもある缶詰を並べただけの作品。彼は、その作品で大量消費を批判するとともに、キャンベルスープの缶詰が大量に並ぶ様こそを「現代社会を象徴する風景」として描こうとしたのだ。あれは「風景画」なんだね。

そうした背景を知らないと「缶詰描いただけで、何の意味があるの?どこがアートなの?」となりかねないよね。

リキテンスタインは、アメリカンコミックを拡大したような単純化された線やドット表現、限定した色使いなどが特徴。彼の素晴らしいところは、コミック表現と抽象表現主義を融合させた独創性にある。(と言われても、何のこっちゃ、という感じだよね。私は大好きなんだけど。)

リキテンスタインも「どこがアートなの?」と言われてしまう筆頭で、実際に東京都現代美術館が彼の絵を購入した際には、あまりの高額に、都民から抗議の電話が殺到したそうだ。

「アート」とは社会背景そのもの

一つ面白い話がある。

先述した印象派の画家・モネは「睡蓮」が有名だが、モネの「睡蓮」は1枚だけではないのはご存じだろうか。実は、モネは数多くの「睡蓮」の絵を描き遺している。多い時には、午前中だけで数枚の「睡蓮」を描き上げることもあったそうだ。

それに対して、リキテンスタインは、1枚の絵を描くのにものすごく時間をかけたと言われる。点描だって、あれは機械で打つから一瞬なのだ。実際にやってみるとわかるが、手で正円を正確に描くのは至難の業である。

大量生産をテーマにしたリキテンスタインの絵は、オーダーメイドのように丁寧に描かれ、前時代のモネの絵は、ある意味「大量生産されていた」というのは皮肉な話だ。

芸術の価値は、描いた時間に比例するわけではないが、モネの絵が「芸術」で、リキテンスタインはそうではない、と言い切る人にとって、その根拠はどこにあるのだろう。

このように、時代や社会によって「アート」の意味や価値は変わる。

ただひとつ言えるのは、私たちが今手にしている「表現の自由」は、先人たちのおかげだということ。

マネが『草上の昼食』を描かなかったら
ピカソやブラックが「キュビズム」を提唱しなかったら
(ピカソが『ゲルニカ』を描かなかったら)
デュシャンが「便器」を展示しなかったら
ウォーホルが「キャンベルスープ」を描かなかったら

私たちは、こんなに自由に表現できる場は与えられなかったはずだ。

アートとは社会背景そのもの。戦時中は自由な表現が弾圧されるように、自由にアートを作り、発表できる社会こそが、健全で豊かな社会なのだ。


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陽菜ひよ子 / イラストレーター&漫画家&文筆家

著書『アトピーの夫と暮らしています』(PHP研究所)。イラストのお仕事は、NHK・Eテレ『すイエんサー』、書籍『おいし なつかし なごやのおはなし』(戸田恵子著、ぴあ)など多数。現在2冊目の本の執筆中。ひよことプリンとネコが好き。 http://www.hiyoko.tv/

コメント18件

引きこもりニートさま なるほど、勉強になります。このことを風化させためにも、やはり問題提起することは大事だなと感じました。
問題提起をするにしても、いつまで言論の自由や表現の自由が担保されてるか、わからないですね....
引きこもりニートさま 確かに。おっしゃる通りです。箱で行うのが難しいなら、せめてネットで声を上げられたら、と思います。しかし、京アニの件で、声を上げにくくなってしまったことも、重ね重ね残念です。
もの言わば唇寒し.... という社会がすぐに目の前に来てますからね?
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